“愚禿”親鸞の誕生

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 本紙10月号に、法務大臣が、死刑執行命令書に「署名する・しない」をめぐって、私なりに考えたことを、『歎異抄』にみえる親鸞の思想との関連で記した。

 ご承知のとおり、『歎異抄』にも死刑のことが出てくる。後序の末に添えられた「付記」においてである。付記の内容は、『教行信証』の後序から、法然門徒の弾圧、いわゆる承元の法難の部分のみを取りだした形になっている。そこに死罪という言葉でもって、法然の弟子四人が死刑に処せられたと記されているのである。「法然聖人ならびに御弟子七人流罪。また御弟子四人死罪におこなわるるなり」。

 『教行信証』後序は親鸞自らが記している。付記の筆者が親鸞でないことは無論のことだが、では唯円かと言えば、違うと思う。唯円なら親鸞聖人と書くであろうところを親鸞と書いているのだ。「親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ」(原文漢文)。付記の筆者は『歎異抄』を書写し得た少数者の中の誰かということがわかるだけだ。ちなみに『教行信証』の主語は「予」である。

 付記の内容を要約してみる。

 《後鳥羽院の治世下、法然聖人の開いた他力本願念仏宗が盛んになった。それを敵視した興福寺の僧侶たちは、あることないこと風聞をでっちあげ、念仏者たちがいかに僧に似ず、秩序を乱す危険なやからであるかを訴え、強い処分を迫ったのであった。彼らの言葉を真に受けた後鳥羽院は、怒りくるって、法然聖人と弟子七人を流罪に、四人を死罪とし、ただちに執行を命じたのだった。西意善綽房、性願房、住蓮房、安楽房の順で斬られた。法然は土佐に、親鸞は越後に流された。

 流罪にあたって、朝廷は、僧に相応しくない行動をとった罪で、親鸞から僧という姓(かばね 社会的地位)を剥奪し、俗名藤井善信を付与した。それは俗への格下げであり、格下げした藤井善信に流罪という刑罰が執行されたのだった。親鸞三十五歳であった。

 このときの親鸞の心底は、以下のようなものであった。私親鸞は僧の剥奪は受け入れる。法然門下に入ろうと思い、二十九年もの間の住まいである比叡山を捨てた時点ですでに私は実質的に僧ではなかったのだ。かつ姓を失った。まさに非僧である。

 だが、俗名を受け入れることはできない。というのも、俗名を受け入れては、いたずらに殺された四人と自分の間に距離を設けることになってしまうからである。

 死罪は、秩序壊乱の悪行を咎められた結果、それまで持っていた共同社会を生きるための、あらゆるよすがを、命もろとも奪われることである。四人はそれぞれ、僧だけでなく俗であることも剥奪され、俗以下の、一個の剥き出しにされた生の状態、すなわち非僧であり非俗となって殺されたのである。

 私が四人と同罪であってもおかしくなく、また彼らが流罪で、私に死が与えられたとしても不自然ではなかった。私が生きて流罪となったのは、たまたまなのである。そうであるなら、せめて存在のあり方において、四人と同様、非僧非俗の、剥き出しにされた生の位置に立って、流罪に服しよう。

 このような非僧非俗、剥き出しにされた生の位置を表すのに、親鸞は「禿」という文字を見出したのであった。親鸞は付与された俗名藤井善信に代え、「禿」の字をもって自分の姓にしたい旨を朝廷に願い出たのである。朝廷にこの申し出を却下する理由はなかった。》

 「愚禿」親鸞の誕生である。「愚」とは、姓「禿」に対応する氏(うじ)である。親鸞にとって、「愚禿」が生きられる場所は、もはや弥陀の浄土以外に求め得なくなったのである。

 *「剥き出しにされた生」(ホモ・サケル)という言葉は、G・アガンベン『ホモ・サケル』による。 

【第9おわり】南御堂新聞201812月号掲載 / 2021/10/6オンライン公開