親鸞と唯円のすれ違い

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『歎異抄』をひらくたびに、すごいなあ、唯円という人は、と思う。親鸞にはこれほどの器の人がお傍についていたのだと感嘆する。

 『歎異抄』の著者を唯円と断定することはできないと言われてきた。著者が唯円でなくても不都合なことは何一つない。中身が変わるわけではないからだ。この点で、著者を唯円とみるか他の誰かとするかは「面々の御はからいなり」ということですませていいのだと思う。

 私はと言えば、著者を唯円として疑わない。親鸞の存在がもっとも間近にリアルに迫ってくる第九章と第十三章、とびきり刺激的なこれらの文中で、親鸞にじかに名を呼ばれ、語りかけられているのである。そこで繰り広げられている対話から、両者の間に親密な感情交流と深い信頼関係があったことがしのばれる。

 唯円はおそらく、『歎異抄』に署名し、自著であることを明示すること自体に意義を認めていなかった。これらの自分の名が呼ばれる対話部分を、それが思想的に重要であるがゆえに、記すということだけで満足だったに違いない。先師の教えに「異」るを「嘆」くと言いながら、親鸞を語ることに、この上ない歓喜が伴っているのが感じられるのである。むろん、それらの箇所が、唯円が著者であることを示唆する、第一級の証拠でもあるのだけれど。

 ところが、それほどの唯円が、どういうわけか、第十三章における宿業の理解をめぐり、親鸞と異なる意見に固執していたように思えるのだ。しかもその食い違いに唯円は気づいていない風情なのである。実際に確かめてみる。

 まず唯円の言葉。「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり」(困った人を助けたいという気持ちになるのは宿業のはたらきであり、逆にひどい目に遭わせてやりたいなどということを思いついたりするのも同様、宿業がはたらくからである―私訳)。

 唯円はここで、宿業を心と関連づけて用いている。さらにもう一つ、宿善・悪業というように宿業を善悪両面に通用する概念とみなしている。「この条、…、善悪の宿業をこころえざるなり」というように使っているのである。

 それに対し親鸞は、「善悪の宿業」という言葉を一度も用いてないのである。それどころか、善という概念も悪という概念も持ち出していないのだ。

 唯円の伝える親鸞の言葉は「卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべし」(断言しておこう、宿業の関与なくして、罪と名づけられるいっさいの行為が犯されることはけっしてないのである=連載第二回)。あるいは「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」である。この章では「いかなるふるまい」が殺人を意味していることは言うまでもあるまい。

 宿業を心理へとはたらきかける「何ものか」とは、親鸞がみなしていないことが知れる。さらには罪とはここでは人を害するふるまいのことであり、それは悪という言葉で把握し直されることなく、そのまま宿業と直接結びつけられているのである。宿業の使用法がきわめて限定的なのである。

 他方唯円は、最初から、善悪の宿業という捉え方で一貫している。罪は悪に置き換えられ、対比的に誘導された善と一対の概念として宿業とつなげられていることがわかる。私はこれまでの連載において、宿業のこうした拡張的な使用に近づくまいと用心してきたのだった。なぜなら、ひとたび、宿業を善悪両端にまで拡張することを認めてしまえば、あらゆる人間のいとなみは宿業に帰せられるというところまで突き進んでしまうからだ。宿業に万能の力が授けられてしまう。これでは思想は立ってこないのではないか。

 親鸞と唯円、宿業という概念をめぐり、これほどまでにすれ違っていたのである。

【第8おわり】南御堂新聞201811月号掲載 / 2021/10/4オンライン公開