※真宗大谷派「部落問題学習資料集[改訂版]」より転載
異るを歎く
曾 我 量 深
先般私は「宿縁と宿善」という題目でお話いたしました時(『中道』十月号所載)、われわれ宗門人が反省しなければならないこととして〝閉鎖社会〟という言葉で言うべきところを、差別言辞を用いました。この言葉は使ってならないということを重々知っておりながら、この言葉によって著しく傷つけられるお方々が現実にあるということに思い至らなかったことは、私の認識が至らなかったことでありまして、省みてまことにお恥ずかしい次第であります。
浄土真宗では二種深信ということが教えられてあります。機の深信と法の深信。機の深信を第一深信と言います。機の深信というのは自覚であります。私どもは劣等感を持っている。劣等感を持っておるものだから善人を気取っておる。定散自力の善人。だから機の深信は主として劣等感から救ってくださるのであると私は前からそう了解しております。『歎異抄』第十九条は一番大切なものであって、十九条の所に、如来よりたまわりたる信心は同一であると。「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと」、それを『歎異抄』の編纂者が受けて、「今また案ずるに善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常にしづみ常に流転して出離の縁あることなき身と知れ、という金言にすこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなくもわが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず如来の御恩の高きことをも知らずして迷へるを思ひ知らせんがためにてさふらひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われも人も善悪といふことをのみ申しあへり」と。二種深信とそういうものは、一体、現実の人間の生活が機の深信でありましょう。だから、それだけをここに引いてある。だから、親鸞聖人の「親鸞一人がためなりけり」というのが機の深信であります。親鸞聖人の教えが「自信教人信」というものであるが、親鸞聖人は一々わが御身にひきかけて教えていなさる。阿弥陀如来が全責任を負うてくださるということは、それは、自分が全責任者であることに帰着する。浄土真宗の正しい教えを自分の実践を通して他の人の眼を開くようにしてゆくことが大切であります。かたじけなくもわが御身にひきかけて、そうして、私どもの自覚を促してくだされた。結局、自覚の教えであります。そういうことが今日もまだ明らかになっておらないと思います。私どもも明らかでありません。お粗末であります。私もそんな差別言辞を使ったということは、自分が差別者として機の深信を欠いていることを曝露した、お恥ずかしいことであります。同和対策などと言いますが、私は、対策というのはおかしいと思う。対策は政治でありましょう。政治は虚仮である。聖徳太子様の御言葉で言えば「世間虚仮」である。対策ではないでしょう。浄土真宗のおみのりを、特に機の深信を明らかにすればよい。それよりほかに何もないと思います。〝僻んでいる〟というけれども、虐げられているからそうなったのだ。多くの人は自覚しないで、自分が人を虐げておって、虐げられておる方が当り前だと、高上がりして善人気取りをしている。それがはっきりしてゆくのが大切で、同和対策などというのは白々しいことだと思う。そういうことは或る程度までは自分にわかっているのだが、口先だけの説法になっていて自分の生活になっていないことを曝露したのでありまして、まことにお恥ずかしいことである。これは私一人が全社会に負うべき責任であります。それが結局自分の頭の分別であって、本当に自分の生活になっているわけでないから、他の人に眼をさまさせる力がないわけであります。『歎異抄』の著者も最後の所に、「泣く泣く筆を染めてこれをしるす、なづけて歎異抄といふべし、外見あるべからず」と結んである。「わが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷へるを思ひ知らせんがためにてさふらひけり」。善悪を知っておると高上がりしておることを迷いと言うのでありましょう(談)
(これは、中道社より読者に送られたものであります。)