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波の上に建てられた信

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 年が改まった。数えで齢い七十七になった。先日、ついぞ出席したことのない高校の同窓会名簿が送られてきた。併せて物故者の名が添えてあり、数えると全体のおよそ十四パーセントの人がもうこの世にないことを知った。平均寿命は女性で八十七歳、男性で八十一歳。比べれば、早い死、早すぎる死ということになるだろう。

 人間は昔から死を支配したいと願ってきた。不老不死の欲望である。死にたくないという願望は、強まると普段は思いもしない幻想を心の中に打ちあげるものだ。その一つがたとえば常世幻想である。常世(とこよ)は死にたくない、もっと生きていたいという人間の欲望が生み出した理想郷のことである。

 『古事記』にこんな話が出ている。死が近いことを知った垂仁天皇(百四十歳まで生きたとされる)は、臣下のタジマモリを常世の国に派遣し、不老不死の果実「非時」の木の実を持ち帰るよう命じた。「非時」は「ときじく」と読み、いつまでも常に同じであるという意味である。タジマモリは常世の国にたどりつき、非時の木の実を葉とともに持ち帰った。だがすでに遅く垂仁は墓の下であった。

 神話時代におけるこの故事を親鸞が知らなかったとは思えない。それゆえに親鸞は、常世よりもっと確かな、真実の不老不死の場所があると言ったのだ。それが浄土である。

 常世と浄土、両者は「非時」を原理としており、いまだ誰も体験していない世界である点で共通している。では違いは何か。常世がこの世への執着を生み出すのに対し、浄土を得るにはこの世の執着を捨てることが求められていることだ。だから、人は常世に行きたがっても、浄土へは行きたがらない。(「易往而無人」『大経』)

 親鸞は、人がこの世への執着を捨てられないことを知り抜いていた。垂仁のしがみつきを愚かなことと笑うことなど誰もできない。ほら、あなただって、風邪をひいたくらいでも死ぬかもしれないなどと大騒ぎするでしょうが、というわけだ。

 捨てられないこの世への執着を煩悩という。親鸞は唯円に言って聞かせた。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことによくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。」(歎異抄九章)。

 煩悩が盛んであることがこの世(苦悩の旧里)を捨てがたくさせている張本人だというのである。だが、親鸞はその煩悩を無理して捨てることはないし、我々凡人にはとても捨てることなどできるものではないとも述べる。

 親鸞はまた、垂仁のような極端な振舞いは、煩悩の火が激しく燃え盛っているときの現れであって、いつまでもそんな興盛状態は続くものではない。やがて衰弱期がやってくるとも述べるのだ。煩悩には満ち引きの波があるということであろう。「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるとき、かの土へはまいるべきなり。」

 煩悩興盛との対比で煩悩衰弱という事態が語れている。「ちからなくしておわるときに」は、煩悩が衰弱し、無理して捨てなくても、そのうち、はからわずに捨てるという捨て方ができる、そういう機会がきっと訪れるというのである。浄土行きはそのときを待てばいいと言うのである。自ずと自分を弥陀の誓願へと委ねる態勢ができあがるのであり、そのときにかねてから行きたいと願っていた、弥陀が招いてくださっている浄土へ参ればいいと言っているのだ。

 「なごりおしくおもえども」は、煩悩消滅ではなく、 煩悩衰弱である。親鸞の信は、死すなわち煩悩消滅の上に建てられたのではなく、ただ煩悩の波の上に建てられたものである。 

【第10おわり】南御堂新聞20191月号掲載 / 2021/10/8オンライン公開