「しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。」「また害せじとおもうとも、(業縁あるによりて)百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第十三章)
去る7月、死刑囚であるオウム真理教の元教祖および幹部の死刑が執行された。7日に7人、26日に6人、いちどきに13人ということに、異様な驚きを覚えた。執行命令書に署名したのは上川陽子法務大臣である。上川氏在任中の執行者数はこれで16人となった。10人以上は長瀬甚遠、鳩山邦夫、谷垣禎一の三氏。
在任期間三百日以上で、署名しなかった人は、1980年以降、田原隆、左藤恵、杉浦正健の三氏。左藤、杉浦両氏は真宗大谷派の同行である。また、90年から3年余、この間法相を務めた四人は、誰も署名しなかった。私は当時、小文を草し、判決はあっても執行はないという形での死刑制度の実質的解体を期待したのだった。あえない夢。
いたって素朴な問いを発してみたい。なぜある者は命令書に署名し、またある者は署名しなかったのだろうか。
現代の死刑は、縄による絞首。斬首刑のように技術をもった専門的に特化された個人を要しない。いまや死を与える技術は、個人の行為が直接かかわる余地なく装置化されているのである。装置上の手続きへの関与は避けられないが、殺人行為に身・口・意の三業のうちの身業(しんごう・身体行為)がかかわることはないのである。
残り二業のうち、意業(いごう)は国家意志、口業(くごう)は命令である。こうして死刑に個人が関与するのは、口業に当たる執行命令書への署名においてだけであることが見えてくる。個人とは、ここでは法務大臣である。
法務大臣は、役割存在であって、個人ではないという反論が寄せられるかも知れない。では、在任中に命令書に署名しなかった法相がいるという事実、署名したものの、法相によって数にばらつきがあるという事実をどう説明すればいいだろう。
署名は法相の役務であり、役務をはたせないような人はその地位に就くべきではないという意見もある。法相の地位に坐るにふさわしい人物について、私は違った見方をしている。死刑という制度について、広く世界の現状を把握し、深い見識を求めようとする人。制度の存否についてあらゆる角度から検討することができる人。そして、未来の法のあり方を模索するために、在任中に署名しないという選択肢を実行に移す勇気のある人。
上川氏はこの時期に13通もの命令書に署名した理由を語っていない。執行後の記者会見で口にしたのは「鏡を磨いて」という言葉、とりわけ「磨いて」を何度も繰り返していた。磨き上げた正義の鏡に映した自分の心には一点の曇りもなかったと言いたかったのだろう。だが、事実を介して伝わってくるのは、平成が生んだ悪を平成の終わる前に形を残さず一掃してしまいたいという強い国家意志であり、上川氏はそれに従順にふるまったということだけだ。
再度、なぜと問おう。少数とは言え、署名しなかった者がいたということ、法相により署名数が異なったということ。
今のところ、親鸞の答え以上の答え方を私は知らない。埋め込まれている業縁の有無、多寡がそれを分けたのであると。署名しなかったのは「業縁なきによりて」であり、署名した人たちは、それだけの「業縁あるによりて」のゆえなのである。
『歎異抄』第七章に「信心の行者には、…罪悪も業報を感ずることあたわず」とある。誤解を恐れずに釈すると、念仏者は、念仏の力によって業縁の関与するような罪悪行為から遠ざけられているということになろうか。すると、左藤、杉浦両氏が署名しなかったわけは、二人が念仏の行者であること、そのことが最大の要因であったと思えてくるのである。
【第7回おわり】南御堂新聞2018年10月号掲載 / 2021/09/30オンライン公開