順次生は生きる命に現れ

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『歎異抄』第五章。「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」。

 親鸞はここで、「どの親もどの親も、みんな救わなければならない人たちである」と言っている。「どの親も」の中には、親鸞自身の亡き父母も含まれている。一度放棄した両親の救済が再度試みられるのである。そして、親鸞は、すべての親の救いが可能になるには、自分が先に、次の世で仏になることだと述べるのである。どういうことであろうか。

 「この順次生に仏になりて」というときの「順次生」という言葉から考えてみたい。

 この言葉に私は、五章に出会ったとき以来、ずっと悩まされ続けてきたのだった。順次生に関して親鸞は、「ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば」、すなわち仏になること、というように、他力への移行課題として説明しているだけである。順次生という言葉にことさら留意するよう求めていない。それなのに私は長いこと、この言葉に付随する死後の映像に囚われていたのだった。

 順次生をごく単純に解すれば、現に生きている私にとっての次の世、ということになるだろう。順次生をこの世と連続的に理解しようとすれば、そこに思い浮かぶのは死後以外になかった。浄土への往生は、死後の出来事という観点がここから自ずと導き出されてきた。

 生きとし生けるものは命尽きた時、必ず、死ぬとなづけるそのやりかたを通って、六道四生のどこかに生まれ落ちる、それが常道である。仏教はそう教えている。それに対し親鸞は、自分はこの順次生に仏になって、六道四生のどこかに生まれ落ちた彼ら衆生を救わなければならないと述べる。それが死後往生した自分の仕事であるというのである。すべての衆生(いずれもいずれも)と衆生の一人である亡き父と母の救済もまた、順次生すなわち浄土移行後のテーマなのである。五章を読み始めた当初の、これが私の理解だったのである。

 しかし、こうした考え方に納得していない自分もいた。もしこの章が死後往生の話であるなら、想像力をもってしかその内容を思い描くことができないということになる。すべてが観念の世界になってしまうのである。それでいいのか。ここから先は私の呟きである。

 親鸞は、順次生に仏になってという言い方を「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」というようにも言い換えている。

 「いそぎ」という言葉は、死後往生という観念にそぐわないように思える。なぜなら命には寿命があり、寿命は生成の原理を組み込んだ命というものの特徴であるからだ。生成の原理にしたがうかぎり、命は自らの寿命をコントロールすることはできない。死を急いだり遅らせたりすることはできないということだ。

 「いそぎ」を命尽きて後、「即座に」往生するというふうに解釈すれば、死後往生という観念との間に矛盾はなくなるだろうか。こうした論法は、今の私には、親鸞の思想を目の前で裏切るものであるように思える。

 「いそぎ」は、「自力をすてて」という箇所と結びつけて理解するのが妥当ではないか。だとすれば、「いそぎ」は、自力に執することの迷いをなるべく速やかに断ち切るべきだという意味になるだろう。自力を捨て、他力をたのむ、この課題ないし過程をいそげ。

 こう考えられるなら、私は、順次生を死後往生とすることの長い囚われから解放されることになる。順次生とは、自力を捨てきったところの生、つまりは生きる命に現れる信心決定の状態のことになるからである。順次生は、現世における生の一形態であり、それは他力信心だけが構想することができるのである。これは私にとって、まったく新しい事態の出現であった。

【第5おわり】南御堂新聞20188月号掲載 / 2021/09/24オンライン公開