家族は信仰の敵なのか

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 前回、『歎異抄』と『新約聖書』をめぐる私の中にある想起関係について書いた。ついでというのもおかしいのだけれど、他にも取り上げてみたい想起関係があるのである。

 『歎異抄』第五章は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」という、“胸のすくような”と形容したくなるくらい挑発的な言葉でもって開始される。

 この箇所に接すると、途端に、私の中で芋づる式に動き出すイエスの言葉があるのだ。

 「信仰の敵は家族である、私より家族を大事に思うものは、私の仲間ではない」(〈人の仇は、その家の者なるべし。 我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。又おのが十字架をとりて我に従はぬ者は、我に相応しからず〉「マタイ伝」10章)。

 「説教中のイエスを母親や兄弟たちが訪ねてきた。『お母様やご兄弟が外で待っていますよ』。イエスは説教を中断し、取り次いだ人に言った。『私の母とは誰のことですか、私の兄弟とは誰のことですか』。それから群衆に向きなおり、弟子たちを指してこう言った。『この人たちが私の母親、兄弟です。天の父の願うことを信じ、実践する者なら誰でも私の兄弟、姉妹、母親なのです』(〈斯て手をのべ、弟子たちを指して言いたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても天にいます我が父の御意をおこなふ者は、即ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり』」。「マタイ伝〉12章)

 さらに想起は続く。「イエスの説教を聞き、その場で弟子になりたいと申し出た若者にイエスは言った『では、ついてくるがいい』。若者は言った。『父が死にました。さきに埋葬をすませたいのですが』。イエスは再度言った。『ついてきなさい。いま、ここにキミの中に生まれた、信仰決定の機会を失ってはならない』」(〈また弟子の一人いふ『主よ、先ず往きて我が父を葬ることを許したまへ』 イエス言ひたまう『我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』。〉「マタイ伝」8章)

 「我に従へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ」。この比喩を最初、優先順位を間違えるな、というふうに理解した。けれども、イエスに優先順位という発想はない。信仰が絶対である。信と不信の間は切断され、深間が横たわっているのである。飛び越えるか、留まるかの妥協を許さない選択があるだけだ。

 飛び越える決断をイエスは、「おのが十字架をとりて」と言った。不退転の覚悟を意味するたとえであろう。二章「地獄は一定すみかぞかし」を想起したくなる。

 さて改めて問おう。第五章冒頭に語るところは、イエスの言葉と同様、「信心にとって家族は敵だ」というニュアンスのこめられたものとして解すべきだろうか。

 私はずっと、そのように捉えてきた。冒頭に続く「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」という論法で親鸞は、自分の中の血縁大事の発想を無化している。個々の父母から、一切の有情の生成にかかわるあらゆる父母へと、父母の概念を極限にまで拡張することによって。自分の親だけを特別視する気持に抗うために、親鸞が自らに課した家族エゴの捨て方であった。

 信の決定を急ぐこと、および家族感情を信の決定の妨げとみる点で、イエスと親鸞、二人にそれほどの隔たりはないと言えそうである。二人が別れるのはその先、親鸞の言葉に、他のすべての父母たちと一緒に、再度、我が親たちの救いを願う姿勢が表れる場面である。

 「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」

 親鸞はここで、「どの親もどの親も」と言っている。そして、それが可能になるには、自分がまず、次の世で仏になることだと述べるのである。

 これはどういうことであろうか。

【第4おわり】南御堂新聞20187月号掲載 / 2021/09/21オンライン公開