第4

逆説的に唯除五逆を

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

   「尊号真像銘文」で親鸞は、本願に付された唯除規定を次のように解説している。

 「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」。

 の文で注目したいのは、「しらせんとなり」の語を、親鸞が二度、用いている点だ。語の主体は、どちらも弥陀であり、伝えたい相手は、一切の衆生である。 

 そこで問おう。では、弥陀は衆生に、何をしらせようとしたのか?言い換えれば、本願末尾に、例外項目「唯除五逆誹謗正法」を置いた弥陀の意図は何だったのか。

 「尊号真像銘文」の親鸞によると、弥陀は我われ衆生に、以下のことを伝えたいと願っていたのであった。

 意図の最初のものは、五逆の罪人を弥陀は嫌っていること、誹謗については、とてつもない「おもきとが」(重き咎)であること。だから、決して犯してはならない、という制止ないし禁止である。善導はこの戒めを「抑止門」と呼んだ(『観経疏』)。

 二回目の「しらせんとなり」の意図は、「しめして」の語が先導している。「しめして」の語は、最初の伝達事項、すなわち五逆誹謗正法に対する戒めがなされたことの確認を意味している。それと同時に、「にもかかわらず」という接続詞風の役割を、この言葉が兼ねていることも読み取れよう。

 かくて、この個所の文意はこうなる。にもかかわらず、戒めを破って、そのような重きつみを犯してしまったとしたらどうなるのか。それでも、そのつみびとを救いの対象からけっして除外しない。そのつみびとも含め、一切の衆生を浄土へと、例外なしに平等に摂取するというのが弥陀の誓いなのである。唯除規定は、そのことを「しらせん」として、据えられたのである。―親鸞の解釈は、そういうものであった。

 親鸞によって、除外を語る語義は、逆の、全員が平等に救済の対象であること、要するに、その摂取の仕方は一切平等性であることだと読み替えられたのである。

 「正信偈」の冒頭で、親鸞は、この弥陀による摂取の一切平等性を、次のような言い方で述べている。「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」。

 「如衆水入海一味」に注目しよう。大小、美醜、浄穢、たくさんの諸々の川も、ひとたび海に流れ入ってしまえば、みな同じ海水(の味)となって、他と区別がつかなくなる、そのようなものだ、が大意である。

 この点を踏まえ、正信偈の冒頭を私釈してみる。「弥陀はどんな凡夫で、地獄堕ちに値する五逆謗法を犯したものであろうとも、ひとたび自力をひるがえし、本願をたのんで、名号を称えたならば、浄土へとすべての衆生を平等にすくい取って、捨てない。そのためにこそ、如来はこの世に第十八願を引っ提げて登場されたのだから」。

 ここまでをもう一度、振り返っておきたい。第十八願の唯除規定は、救済に例外があることを強調している。五逆誹謗正法は、弥陀の認めるところの、最悪の「つみ・とが」である。ゆえに、救済の対象から外された。だが親鸞は外していないと主張するのである。唯除の強調が、かえって例外規定の除去に、すなわち摂取の一切平等性の強調に転じていると説くのである。親鸞は、そのように、逆説的に唯除規定を理解しようとしたのだった。第十八願の本願への転換!

 では、こうした転換はどうして可能になったのだろうか。唯除規定をそのまま、救済の例外事項と承認してすましているならば、第十八願は、内部矛盾をきたし、破綻することになる。この矛盾を衆生が解消すべきものだとみなすなら、十八願は自力仏教のものと化すほかない。救済が自力である限り、逆謗のつみびとは絶対的に地獄堕ちを免れない。おそらくは、ここを回避すべく、親鸞は他力という根本力学の関与を提起したのではなかったか。

【第47おわり】南御堂新聞20223月号掲載 / 2022/3/29オンライン公開