第4

「“唯除”に対する疑念」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

  親鸞は、浄土の真宗の中核として、弥陀の四十八願から第十八願を本願として取り出した。その第十八願には、他の誓願にはない特徴がある。文末に漢字にして八字分の但し書きがついているのである。それが「唯除五逆誹謗正法」である。

 「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」(『仏説無量寿経』/『真宗聖典』一八頁)。

 全文を引いた。

 初めて第十八願を読んだとき、唯除部分を邪魔だなと感じたのだった。誓願らしくない、削除したらすっきりするのに、と思ったのだった。その他のすべてが「正覚を取らじ」で締め括られているのである、考えるという作業の初歩において、このような感想を抱くのは必然であった。

 もともとなかったところに、誰かが付け足したのではないかという疑いも兆した。この疑念には、しつこくつきまとわれた。けれども、いつの間にか疑う自分の姿が見えなくなっていた。疑念が薄らいだのには、なによりも肝心なことに、親鸞その人が、第十八願の但し書きを、そのまま受け取っていることであった。本願の一部であることを、少しも疑っていないのである。

 そのことを示す親鸞自身の書き物を二つだけあげてみる。

 一つは、息子善鸞(慈信房)に宛てた親子の縁切り状である。ここでの親鸞は、怒りの感情を露わに、善鸞を罵倒し、絶縁を言い渡しているのであるが、その縁切りの根因にあげているのが、唯除規定なのである。親鸞はここで、唯除規定に照らして、息子の罪を数え立てている。

 「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて人ごとにみなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼう(=謗法)のとが、また五逆のつみをこのみて、人をそんじまどわさるること、かなしきことなり。ことに、破僧罪ともうすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをもうしつけたるは、ちちをころすなり。五逆のその一なり。このことども、つたえきくこと、あさましさ、もうすかぎりなければ、いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおもいきりたり」。

 本願をしぼめる花にたとえて、会う人ごとに本願を棄てさせたという話、それが事実なら、正法を謗るという咎である。また五逆の罪を率先して犯すよう唆し、念仏者の心を損ない、混乱に陥れたこと。とりわけ、「破僧罪」(破和合僧―念仏者集団を分裂させること)は、五逆の一つ。父に虚偽を伝えることは父殺しであり、当然五逆である。

 ここまで唯除規定を踏みにじったとするなら、その罪の大きさにおいて親子絶縁もやむを得ない、というのが親鸞の判断となっていたことがわかる。

 もう一つは、『教行信証』総序である。「しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す」とある。右の文の訳と、ここに記述された「五逆誹謗正法」に関しては、稿をあらためて考えたい。

 ところで、ここ数年、温めてきた問いがある。こういうことだ。『歎異抄』には、五逆も、誹謗正法も出てこない。親鸞が、重要な発言部分で、これらの語を用いたとすれば、唯円の耳が聞き逃すはずはない。間違いなく、文字化されたであろう。ということは、このことは唯円の前で親鸞は、唯除規定を主な話題にしなかったことを物語るものではないか。

 本願と『歎異抄』は、唯除規定一点をめぐり、どこが同じで、どう違っているのであろうか。これがこのところの、わが内なる問題なのである。

【第46おわり】南御堂新聞20222月号掲載 / 2022/3/15オンライン公開