第4

「“つみ・とが”を露出し

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 戦争は一見、国家間の争闘の様相を呈するけれど、本質つまり実相は、その国の民衆(=被支配層)と支配層との間の争闘なのである――吉本隆明の講演によって紹介されたシモーヌ・ヴェイユの戦争観である。

 固定的に映っていた善と悪の構図がぐらりと揺れた。その崩れた構図の隙間から、一瞬、善を独占していた者たちの、隠されていた素顔が覗いた、と思った。善なる戦争などというものはどこにもないのである。

 ところで問題は依然として第十八願の唯除規定である。

 『教行信証』総序を読むと、親鸞が十八願の例外条項について、条文をまるごと残しながら、条文のもつ排除機能を根こそぎ無化するには、どうしたらいいか、その時期と方法を思案していたことが伝わってくる。以下は筆者の愚見。

 親鸞の目論見は一つ、他力の思想を軸に、十八願を読み替えること。これができるなら、浄土の真宗の思想的中核にこの願を本願として据えることができるというものであった。そのために親鸞は驚くべき企てに打って出たのである。それは、経典の王舎城の悲劇を、遠い過去の事件ではなく、現在性、すなわちいま目前に起きつつ出来事として把握し直すこと、これであった。

 どうしたらそれは可能か。親鸞は思い切って踏み込んだ。この悲劇を、善導と逆に、見ようと思えばいつでも誰でもが見られるドラマに仕立てようとしたのである。作・演出は弥陀と釈迦、何人もの尊者(大聖)が役者を引き受けた。親鸞によれば、ドラマ化は弥陀釈迦の意志なのだ。

 親鸞は、浄土和讃「観経の意」で、このことをはっきりと述べている。「弥陀釈迦方便して/阿難目連富楼那韋提/達多闍王頻婆娑羅/耆婆月光行雨等」。

 十八願は、このドラマ化を介して、他力本願を表すものとして読むことができるようになったのである。

 涅槃経、観経によれば舞台は二幕。一幕目は、「調達、闍世をして逆害を興ぜしむ」が筋書。二幕目の筋書は、「釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」である。

 親鸞の書いた二つの筋書文の構造は同じ、「せしむ」という語を用いている点も共通している。「せしむ」の語義は、仕向けてそうさせる、である。自らの意志、力でそうしたのではないということだ。

 調達(提婆達多)と釈迦は、構文上、同じ位置にある。調達は、阿闍世に父頻婆沙羅殺害という五逆を起させている。釈迦も同様、韋提希に沢山の仏土を見せた後に、その中から行きたいところとして弥陀の浄土を選ばせているのである。

 どちらも第十八願を本願とすることにからんでいる。韋提希の仕向けられた選択は、凡夫韋提の願心ではなかった。弥陀の大悲心のはたらき、至心信楽欲生の個所の、他力視点による、親鸞の大胆な読み替えに繋がっていく。

 阿闍世の父殺しは、唯除規定を無化するうえで、その「つみ・とが」を一度表面に露出させる目的から、行われた。露出させることによって、犯した「つみ・とが」がどれほど重大であるかを衆生に知らしめ、この「つみ・とが」を犯した罪人、咎人を救えるのは弥陀釈迦の教えをおいてない、そのことを知らしめることであった。

 このことは、弥陀釈迦の前に、二尊を脅かすような悪や悪人などいないのだと言っているのと同じである。

 『歎異抄』の後序に、唯円の引いた親鸞の言葉。「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、…」

 唯除規定を、他力ということの本義が無化したことが、ここに語られている。如来の心には逆謗も摂取から除くべきほどの悪ではなかった。念仏にまさる善なきゆえに。

【第48回(最終回)】南御堂新聞20224月号掲載 / 2022/4/8オンライン公開