第4

「妻問する機会を供した場

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 親鸞が妻間、すなわち共寝した女性が恵信一人ということは考えにくい。ただし、それらの女性を特定することはほぼ不可能であり、立ち入っていくとあやふやな伝説の領域に取り込まれてしまいかねない。なので、事実として推測可能なことだけを述べよう。

 叡山の堂僧の恵信への妻問は繰り返され、やがて同居にまで進んだ。同居がいつ始まったかはつまびらかにしない。同居婚に至ったことを確認できる資料は、たった一つ、娘覚信尼に宛てた恵信の手紙の以下の個所だけである。

 「善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、(中略)御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず」(「恵信尼消息五」/『真宗聖典』619頁)。

 (私釈 そう、あれは確か、寛喜三年四月十四日の昼前後のことでした。お父さんが、少し寒気がすると言い出し、とうとう夕方には寝こんでしまったのです。とてもつらそうなので、按摩でもしましょうかと言ったのですが、いつものごとく断られてしまいました。背中に手を入れると、火のように熱いのです。風邪による高熱なのでしょう。頭痛も尋常ではないようでした。)

 「御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし」という記述に注目したい。同居する妻だけができる、病気の夫への自然なふるまいが記されている。このさりげない一行が無ければ、恵信にとって親鸞は、たんに同行であり、信心の唯一の導き手でしかなかったと強弁されても、黙るほかないのではないか。その意味で、すこぶる重要な個所である。二十年以上も前のエピソードを、日時、やりとり、症状の変化までも、眼前に見るように鮮明に、恵信に記憶させたのは、彼女の手に残る夫の肌の高熱の感触であった、そう断言してみたくなる。子どもが産まれた背景もくっきりしてくる。

 さて、時間を前に巻き戻すと、では、堂僧と恵信との最初の妻問の場はどこで、妻問は繰り返されたわけだが、その場は、誰がどう用意したのであろうか。

 妻問婚の原則は、通い婚である。男が女のもとに通うのである。同居は、通い婚が繰り返され、男が女の所に泊まるようになって、ようやく生じてくる出来事である。この原則からすると、妻問の場を用意したのは恵信ということになる。恵信が用意したということになると、当時の恵信の暮らしぶりがわからなければならない。

 この点に関して、鮮やかな指摘に出合った。恵信はその時、「ちくぜんの局」という名で(恵信尼消息一、二)、宜秋門院任子に仕える女房であったというのである(畑 龍英『親鸞』下「愚者の念仏」/畑氏は真宗高田派の僧侶)。

 宜秋門院は、公家九条兼実の娘であり、九条家の所領の大部分を伝領する大富豪であった。局とは、独立した部屋を持つ女官のことである。

 ああ、そうだったのか、これで二人の婚姻形態の肝心な点に得心のいく理解を得られたと思った。妻問した男を、恵信が迎え入れたのは、ちくぜんの局としての自らの部屋であったのだ。

 ご承知のとおり、九条兼実は、法然のパトロン的存在であり、父の影響下にあった宜秋門院も同じく法然の弟子となっていた。任子が法然の弟子になったのは、問題があって後鳥羽天皇の中宮(皇后)の座を降り、宮中を退いて、宜秋門院になって以降のことである。ちくぜんの局恵信も主にならって、法然の弟子になっていたであろう。そして、任子に付き従って、あるいは任子の使いで、幾度となく吉水の法然のもとを訪れたものと想像する。

 叡山の堂僧に、恵信を見初め、妻問する機会を供したのは、法然という場であった。

【第43おわり】南御堂新聞202111月号掲載 / 2022/2/21オンライン公開