第4

「非僧非俗というあり方」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 韓流の連ドラにはまっている。現代もの歴史もの、どれも活気があり、その大胆かつ緻密な作りに目を瞠る。中の一つ、女性主人公の名をタイトルに冠した歴史劇『トンイ』を見ていて、脇役人物の次のような台詞に出合った。朝廷(王宮)勤めの官吏が罪を問われ、流刑になった場合、流刑地での住まいは、高官の場合は政権側が用意する。だが、下級官吏は自分で探し、借りなければならず、そのためにもお金が必要となる―。

 この言葉を聞き、思い起こしたのは、同じ流刑者であっても、法然と親鸞、二人の罪人に対する朝廷の扱いに見られた、歴然とした差異であった。

 1207年、いわゆる承元の法難が起こった。法然の説く、専修念仏を柱とする浄土門仏教の台頭に圧倒され、危機感を募らせた聖道門仏教側が、法然一門の解体、ひいては専修念仏解体を狙って朝廷を動かし、でっちあげたのがこの事件であった。『歎異抄』後序に付された文によれば、その結末は、弟子四人が死罪に、法然および親鸞をふくめ八人が流罪に付されるという無残なものであった。

 親鸞は、旧仏教が権力者と結んでとったこの処置、とりわけ四人の死罪に激しい憤りを発し、独自の抵抗を試みたのであった。朝廷は、親鸞の社会的地位を僧から俗へと一階級降格させ、俗名藤井善信を与え、流人とした。だが親鸞は、僧にあらず俗にあらずの自覚に立ち、俗名を返上、俗以下の「禿」を姓とすることを申し出たのである。この申し出は、その動機を聞き咎められることなく、許可された。かくて地上性を失った非僧非俗というあり方、言い換えれば愚禿が、以後の親鸞の思想と行動の本体となったのである(『教行信証』後序)。

 さて、この稿の目的は、二人の流罪の形を比較し、そこに浮かび上がる違いに目を凝らすことである。

 法然が流されたのは、暖かい四国、それも当初の土佐が、讃岐の塩飽に変更された。対照的に親鸞の送られたのは冬雪深く、海の色は暗く、空はいつもどんよりと垂れ込み、夏は湿気の多い越後であった。

 生活面では、法然には草庵が用意され、現地の僧たちの歓迎を受けた。そればかりか、一年足らずで特赦にあずかったのである。おそらくはこの時点で、俗名藤井元彦は返上されている。暮らしの心配は、皆無、布教もそれほどの制約を受けなかったに違いない。大公家九条家との縁が深く、かつ名代の僧であった法然ゆえの特別待遇であった。そして、帰洛が赦された四年後、法然はすぐに京へ戻り、その年、僧として生涯を閉じたのである。

 他方、親鸞の暮らしはどうであったのか。住まいはどうしたのだろうか。食物はどうしたのだろうか。明らかでない。むろん、自ら調達しなければならなかったはずである。だが、親鸞にそうした才覚があったとは思えない。憧れていた加古の教信沙弥のように、お百姓や漁師の仕事の手伝いに出て、人足としてわずかばかりの金や食料を得るという日々だったのだろうか。あり得るかもしれないが、どうにも信じがたい。

 筆者の思い込みでは、地元との付き合いも含め、これらの生活現実上の喫緊の課題の解決に当たったのは、流人親鸞に付き添った妻恵信であった。金は恵信が女官時代に貯えたものを持参した。それがあったゆえに、短くとも四年の間、恵信は、流刑地での親鸞の暮らしを一人支えることができた、そう考えられないだろうか。

 赦免は四年後、法然と対照的に、親鸞は京に背を向け、同心の恵信と手を携え、関東に向かったのだった。この選択は、非僧非俗すなわち愚禿を取り下げなかった親鸞にあっては必然と言えた。それはまた、おそらくは、法然との訣別でもあった。

【第44おわり】南御堂新聞202112月号掲載 / 2022/2/28オンライン公開