第4

「自分の覚悟・姿勢」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 漱石『行人』の話を続けよう。前回記したように、主人公一郎は、考えて辿り着いた安心の境界を、何も考えていない天然のままの心が、天然のままに顔を出している状態であると説明した。それこそが尊いと思う刹那の顔であり、瞬間の自然、とりもなおさず神である。そのような人の傍にいることが、安心だというのである。

 ところが、友人Hさんによれば、一郎はそれゆえに、窮地に立たざるを得なくなったのである。なぜなら、考えに考え抜いて、そのようにして見つけ出した安心の境界には、何も考えていない天然、自然の状態においてしか入ることができないからである。

 一郎の陥ったこうした背反的窮地を、H自身が、次のように解きほぐしてくれている。「兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです」。

 安心は、幸福と言い換えてもよかったことがわかる。考えたり、研究したりといったやり方では、自我は充足しても、安心の地、幸福の地には、一足たりとも近づくことが出来ない、近づけたと思ってもそれは幻だというのである。手だてを失った一郎に絶望が訪れる。もはや自分の前途には、死ぬか、狂うか、宗教に入るかこの三つしか残されていないと述べるに至るのである。

 冒頭で、一郎が発見した安心=幸福の境界を、一郎自身の言葉でもって、「何も考えていない天然のままの心が、天然のままに顔を出している状態」であると記した。

 ここで一郎が天然とか自然という言葉で表そうとしているのは、人間が営む日々、刻々のはからいを離れるときに、人間の顔に現れる無欲、無為の相という意味に受け取れる。一郎は、そこに神を見ている。

 たとえば、親鸞は述べている。「自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに」(「正像末和讃後記」)。

 「如来のちかいにて」を、「神の誓いにて」というふうに置き換えれば、意味はほぼ寸分違わないように思える。けれど、両者は、志向が逆向きのように思えてならない。

 一郎の言う人間の顔に現れる無欲、無為の相を押し広げていけば、休息や眠りの状態が見えてくる。その先にある極限が死であることも、明瞭であろう。漱石の別の作品『門』の主人公宗助は、日々の暮らしの安心を脅かされ、いたたまれず、ひとり、鎌倉の寺に参禅する。だが、何事も得ることなく日常生活に戻ってくる。

 平凡な生活者からすれば、一郎の見ている安心=幸福の場は、対岸のものでしかない。対岸のものとは、自我が打ち上げた幻であるという意味である。

 妻直を信じられず、前回見たように貞節までも疑う一郎にとって、構えずに心を許せる身近な女性は、十年、家に仲働として住み込んでいる貞だけであった。貞は、一郎の目に、何も考えていない天然のままの存在、神として映っていた。だが、それは、まぼろしなのである。自分の都合しか頭にない一郎には、十年におよぶ使用人生活の中の屈折と涙とあきらめが想像できないのだった。一郎の安心=幸福は、ひたすら人頼みであるということだ。

 親鸞の安心論、幸福論は、一郎とまるで方向が逆であった。親鸞にとっては、問われるべきは人の心のあり方ではなく、ただただ自分の覚悟、姿勢なのであった。以下に引く文は、これまでの文脈に置いてみると、筆者には、親鸞の安心論、幸福論の要のように思えてならないのである。

 「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(『歎異抄』第二章)。

 親鸞には、安心も幸福も、深く結縁した相手と地獄までもろともに、というところにしか考えられなかったのである。

【第41おわり】南御堂新聞20219月号掲載 / 2022/2/8オンライン公開