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「考えた御蔭で入れない境界」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 この半月、夏目漱石(1867~1916)の小説を読んでいる。漱石を漱石たらしめた晩期の作品群、『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』と続け、『道草』にさしかかったところで、この稿に着手したのだった。『道草』のあとは、未完の『明暗』が残るだけだ。

 1909年から死ぬ直前まで書き継がれたこれら諸作品で漱石は、人間存在の底知れぬ不可解さを探ろうとした。脆弱な自我を支えに、真っ暗な深淵の急勾配を、どこまでも一人、降りてゆこうとしていたように思われる。

 これらのうち親鸞との関連ですぐにでも取り上げてみたいのは、『行人』(1914年刊)である。

 『行人』は、どんな小説か。少ない言葉での説明は困難を極める。主人公が三人一組であること、三人のうちの誰かではなく、三人の関係性が主人公である点に、作品的な特徴がある。三人とは人文系の学者であり、大学教師の一郎、芸術に関する仕事を取り扱う事務所に勤めている独身の弟二郎、および一郎の妻直である。

 一郎の自我は安定しない。絶えず正常と異常の境界線上を揺れ動いている。作品は、その一郎の心理の動きに即して展開してゆくのである。そのため、一郎の心が異常の側に強く振れるとき、二郎も直も鋭い不安と緊張状態に追い込まれざるを得ない。

 たとえば一郎は、直の気持ちが自分よりも、弟二郎に傾いていることを疑い出すのである。そして直の節操を試すべく、その役割を他ならぬ二郎に求めるのである。疑うことを自制できずに感情の暴君と化した兄、疑惑の対象になった嫂、その嫂を試す二郎。兄は、弟に言う。「御前と直が二人で和歌山へ行って、一晩泊ってくれば好いんだ。」

 さて、取り上げたかったのは、一郎の以下の発言である。親鸞思想の核心である「自然」という概念をほうふつとさせるところがあるのである。

 「君でも一日の内に、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔を出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ。」

 尊いという言葉を価値付与的に使うのは、その瞬間に神を見るからだと一郎は言う。

 「車夫でも、立ちん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか、そのほかにどんな神がある。」

 ここで君と呼びかけられているのは、友人Hさんである。Hは、一郎の話を聞き、始めて「何も考えていない人の顔が一番気高い」という普段からの一郎の持論を理解することができたと述べるのである。

 「何も考えていない人」とは、「損も得も要らない、善も悪も考えない」と一郎が述べているとおり、「何も考えていない」状態にある人を指している。すると人の一日の多くは「何かを考えている」状態にあることになる。邪念や狡知や疑心のはたらく時間である。

 ここに人間の顔の二面性があぶり出される。安心の顔つまり天然自然の神の顔と、絶えず関係に脅かされ、心の休まることのない不安の顔と、である。

 だとすれば、自分の願うのは、苦を離れた安心の場所に行くことではないか。

 ところが、とHは続けるのだ。一郎がこうした判断に到着したのは、「全く考えた御蔭」であると。しかし、「考えた御蔭」でこの境界に彼は入れないのであると。

 繰返せば、一郎は、認識の力で安心という境界を発見した。だがそのゆえに「この境界」には入れない。実際の安心の境地を閉め出されている、というのである。

 一郎は自分の前途を死ぬか、狂うか、宗教に入るかこの三つしかないと述べる。

【第40おわり】南御堂新聞20218月号掲載 / 2022/2/4オンライン公開