自分自身を裏切った二人

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『歎異抄』第十三章は、唯円があるとき、親鸞に震えあがるほどの怖い目に遭わされ、はてに、宿業という概念を心身に叩き込まれるといった経験を紹介している。

 あるとき私(唯円)ひとりがお傍にいたときのことだ。聖人は何気ないふうに私の顔を覗いて、「唯円よ、キミはわしの言うことを信じるか」と訊ねてきた。「もちろんです」とお応えすると、「それなら、わしの求めることにも従うか」と踏み込んで念押しされたので、「誓ってお言葉どおりにいたします」とお応えしたのだった。

 「ではまずは、人を千人殺してきなさい、そうすれば唯円よ、キミの浄土往生は確実となるであろう」。

 我が耳を疑った。一瞬、ご冗談をと返そうとしたが、まるで知らない親鸞がそこにいた。私は激しく動揺し、怯えた。「お言葉ですが、私の力では一人だって殺すことなどできそうにありません」。やっとのことで絞りだした言葉がこれであった。

 「それなら、キミはなぜわしの求めどおりにすると誓ったのだ」。

 聖人の問い詰めは容赦なかった。私は固まったまま、ただうなだれているほかなかった。やがていつもの穏やかな聖人に戻ると、こう諭された。「わかったかな。なにごとも望んだごとく自由になるなら、往生のために千人殺せと言われたら、すぐに殺すことができよう。だが殺す殺さないは、意志が決めるのではない。力のあるなしにもかかわりがない。往生のためと信じても、キミのように殺せない人には一人だって殺せない。なぜ殺せないか。キミの心がやさしいからではないぞ。キミという存在にそれだけの業縁(宿業)が組み込まれていないからなのだ。逆に、人を傷つけまいとする意志を堅固に保っていようとも、ひとたび業縁がはたらきだせば、キミのような穏やかな性格の人間だって百人千人殺してしまうということが起こり得るのだよ」。

 こんなふうに唯円の恐怖体験を章全体から切り離し、独立的に扱ってみると、一種の想起関係とでも言おうか、しばしば私の中に浮かびあがってくる場面があることに気づく。新約聖書に描かれたイエスの弟子、ペテロのつまずきである。『マルコ伝』で紹介してみる。

 いよいよ自分に最後の時が迫っていることを感じたイエスは、弟子たちに「私は間もなく権力の手に捕まり殺されるが、諸君らはすぐにもここを逃れ、ガリラヤに向え」と命じた。ペテロは抗議した、「たとえみんなが逃げても、私は決しておそばを離れたりいたしません」。イエスはペテロに告げた、「今日この夜、キミは鶏が二度鳴く前に、三度私を知らぬと言うであろう」。ペテロは強く誓って言った、「ありえないことです、たとえ捕まってあなたとともに死ぬことになろうとも、私はどこまでもあなたと一緒です」。他の弟子たちも、そのとおりだと口をそろえた。

 だが、事態はイエスの予言どおりに進行する。イエスに襲いかかる捕り手たちを見た弟子たちは誓ったことも忘れ、我先にと逃げ去った。ペテロはかろうじて、踏みとどまり、様子を窺うべく、イエスが引っ立てられていった大祭司の館の中庭に入り込んだ。そこで、館の従僕たちにイエスの仲間であることを見破られそうになるのである。

 女がペテロを指して言った「イエスと一緒にいた人だ」。「そんな男は知らない」ペテロは否定した。二度、三度と。折しも、鶏が鳴いた。「あ、また鳴いた」ペテロは思った。突然、ペテロの心にイエスの声が蘇ってきた。「ペテロよ、今日この夜、キミは鶏が二度鳴く前に、三度私を知らぬと言うであろう」。ペテロは、イエスのこの言葉を思い返して、身をよじらせて泣きだした。

 唯円とペテロ、二人はともに、つまずいた。第一に誓うことによって、師を裏切っている。ところがこの裏切りは師には当初から、お見通しであった。とすれば、これを裏切りということはできない。では誰を裏切ったのか、他ならぬ自分自身を裏切ったのである。誓いにおいて、二人は自分につまずいたのである。このことを親鸞は、外面の誓いすなわち忠誠(賢善精進の相)を棄てろと言った。内に裏切り(虚仮)を抱えているのだから、と。

【第3おわり】南御堂新聞20186月号掲載 / 2021/09/17オンライン公開