第3

鬼神化への過程と帰依

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『教行信証』化身土の巻の親鸞は、鬼神について、病気を起こし、それを悪化させ、ついには命をも奪うのである、だから近づくな、遠ざかれと繰り返し警告している。

 親鸞は、鬼神に帰依することを、死に至る病と捉えた。鬼神への帰依は、名号を捨てること、すなわち浄土往生が不可能になることを意味する。それは念仏者にとって魂の死に等しい。鬼神への接近がもたらす、そのような信の深刻な崩壊状態を説明するのに、親鸞は発病、悪化、死という病の進行過程を、喩えとして用いたのであった。

 ここに言う鬼神は、病気の原因のことではない。たとえば新型コロナウイルス感染が個々の人間の体に生じさせるさまざまな症状のことでもなければ、コロナが世界を席巻している現実、いわゆるパンデミック状況を指してのことでもない。

 まず、上の諸点を確認しておこう。

 さて、筆者の関心は、コロナ感染予防をめぐるこのたびの対応・方策により、私たちの心が直面した恐るべき出来事に向けられている。そこで起った人間の魂の死全体をコロナの鬼神化と呼んでみたい。

 コロナが鬼神化した証拠は、ほかでもない自分自身に訊ねてみれば簡単に確かめることができる。筆者が経験した変貌のうち最大のものはなにか。わずか一年半の間に、膨大な数の善人が生み出されたことである。そして、筆者はある日、気づいたのである。その善人の一人として私自身が振舞っていることに。

 善人とは鬼神の説く戒律に従順な人であり、さらに戒律は習慣化し、習慣は時を経ずに善悪の倫理を形成し始める。正義の人となった善人は、自分の外に悪を措定する。世界を敵と味方に分断しようとするのである。

 筆者自身を例に取ろう。コロナの防御対処法として、最初に国や専門家から指示されたことは三密を避け、ソーシャルディスタンスを守り、マスクを着用するという三点であった。筆者は半信半疑のまま仕方なく、指示にしたがった。豊穣で色彩豊かに見えた世界がたちまち灰色に色褪せ、貧困化し始めた。だが、その一方で、この仕方なくはやがて慣れに変わり、そうしなければならないという行動規範へと強化されて行っていったのである。

 そのことの極端な例がマスクであった。相互監視の息苦しさの中、マスクはその本来のはたらきを超えて、記号化し、行動規範と結びついたのである。かくして険しさを増した筆者の眼差しは、マスクを着用しない人を探し始め、悪として摘発し、排除すべく、吊るし上げの体制を整えていったのである。

 おおよそこれが筆者の内面に生じたコロナの鬼神化への過程、鬼神への帰依の姿、私という人間の魂の死の形であった。まことに容易に善人になってしまう自分。

 『歎異抄』七章で唯円は、次のように語った親鸞の言葉を紹介している。「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祗も敬伏し、魔界外道も障碍することなし」

 この章は、化身土の巻とあわせて読むと、少しは理解できるようになると思った。私釈してみる。「…心に念仏を称え、往生を遂げようする者を妨げる諸勢力は存在しない。なぜなら、このときの念仏者は弥陀と同等であり、天神地祗、魔界外道の力のおよぶところではないからである。そのことを知っているゆえに、これら諸勢力は、一歩下がって念仏者を敬うである」

 天神地祗、魔界外道の中に、鬼神も含まれていることは言うまでもないだろう。

 念仏者を超える諸勢力はどこにもないのに、なぜ人は鬼神に接近したがるのだろうか。『歎異抄』第七章の言外には、他力という信心のあり方がいかに難しいか、念仏者たちの現実を目の当たりにしての、このような人間の危さへの、親鸞の思いがこめられていたのではないだろうか。

【第38おわり】南御堂新聞20216月号掲載 / 2022/1/28オンライン公開