第3

「コロナを現代の鬼の問題に」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 波状的に猖獗をきわめる「コロナ」について、親鸞思想とのからみで何か言えることはないのだろうか、そうぼんやりした頭で考え続けてきた。やっとのことでヒントを一つ、見つけたと思った。『教行信証』化身土の巻の中に記されてある魔と鬼、筆者が注目したのは、そのうちの鬼であった。

 親鸞は、源信『往生要集』を引きながら、書いている。

 「魔は煩悩に依りて菩提を妨ぐるなり。鬼は病悪を起し命根を奪う」(私訳:魔は煩悩に乗り移り、煩悩と合体して、人に浄土を慕う気持ちを起こさせまいとする。鬼は病気を起こし、それを悪化させ、ついには命をも奪うのである)。

 鬼とは帰であって、古代中国では、死人を名づけて帰人と言ったのだと、親鸞は説いている。だとすると、死んだ人間が神と化したのが鬼ということになる。鬼とは鬼神である。

 鬼神は、化身土の巻の後半に、しりぞけるべき対象として、頻繁に登場してくる。親鸞は、鬼のさまざまなはたらき(たとえば吉凶の占い)をとりあげ、惑わされるな、帰依するな、帰依する対象を間違えると、地獄に堕ちることだってあると説くお経まで引き、制止につとめている。

 このことは、当時、鬼神が念仏の行者たちの足下を突き崩すほど厄介な勢力となっていたことを物語っている。親鸞にとって他人事ではない、末法の世の悩ましい傾向となっていたのである。

 親鸞は、念仏者としての原則論を述べている。礼拝し、仕える対象は弥陀一人、その他国王であろうと、父母であろうと帰依の対象ではない。むろん、鬼神も、である。――だが、こうした原則論だけでは、事態の収拾は困難となっていた。

 有効な手立てを見つけ出せないまま、最後にたどりついたのが、『論語』に現れている、孔子のとった態度、鬼神のしりぞけ方であった。

 「季路問わく、『鬼神に事えんか』と、子の曰く、『事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」

と。これが化身土の巻本文の結びの言葉となっているのである。

 親鸞の『論語』の引用は、かなり省略があるので、その全体を正確に書き抜いてみる。

 「季路鬼神に事えむことを問う、子曰く、未だ人に事うる能わず、焉ぞ能く鬼に事えむ。曰く、敢て死を問う、曰く未だ生を知らず、焉ぞ死をしらむ。」(先進第十一)

 (私訳:弟子の季路が師に訊ねた。どのようにすれば鬼神にお仕えすることができるのでしょう。孔子は答えた。お前も知るように、私(の礼と仁を軸にした政治思想)を用いようとした国はいまだない。だから王への仕え方をよく知らないのだ、そんな私にどうして王を超越している鬼神への仕え方を問うのか。では、もう一つ、と季路は重ねて訊ねた。先生、死とはなんでしょうか。孔子は答えた。私は生のことさえまだよくわからないでいるのだよ。そんな私がどうして死について語れようか)。

 これが孔子の鬼神の遠ざけ方であった。すなわち「敬して、これを遠ざけた」のである。何度読んでも、見事だなあ、と感嘆してしまう。おそらく『論語』親しんでいた親鸞は、この孔子の態度を好ましく思っていたに相違ない。どんなに即効性、直接性に欠けていようと、これ以上の適切な遠ざけ方はないであろうと思っていたに違いない。

 親鸞はしかし、孔子のこうした柔らかな相対化を、剛直な突き放しに書き換えたのだった。「人いずくんぞ能(よ)く鬼神に事えんや」(私訳:人間が鬼神に仕えられるわけがないのである)。

 さて、化身土の巻の親鸞は、鬼の問題性、病気を起し、それを悪化させ、ついには命をも奪うことの意味を、信心の根本の崩壊の姿と結びつけた。

 それなら、コロナを現代の鬼の問題とするためには、どんな視点を用意すればいいのだろうか。

 筆者が考えてみたいのは、私たちの新しい鬼神、コロナへの帰依のかたちである。

【第37おわり】南御堂新聞20215月号掲載 / 2022/1/25オンライン公開