第3

「愚禿を軸とした“転倒”」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 和讃の中で、疑心の善人という言葉と出会った。本願の不思議を疑うゆえに善人になってしまった人という意味だ。善人とは自業自得の人、すなわち自力の人である。親鸞において善ないし善人は否定性なのである。

 親鸞にとって問題は、どうしたら自業自得といった無残な事態に陥らずにすむか、善人を回避し、他力を徹底できるかである。

 話は飛ぶが、善導の『観経疏』に、「雑毒の善」という言葉がある。

 観経は、もっとも信心の厚い人びと(上品上生の衆生)の、往生を願う態度には際立った特徴がある、と述べている。それは、内面が三心に満たされていること。三心とは至誠心・深心・回向発願心である。これら三心がそなわっているがゆえに、往生は確実なのだ、と言うのである。

 善導は、この三心を、往生を願う誰もが取るべき必須の態度として抽出したのであった。

 善導によって解釈された三心は、きわめて具体的な指示のともなった内容となっている。ここでは、雑毒の善という言葉が出てくる至誠心についての記述にかぎって触れてみたい。

 善導によれば、至誠心とは真実心である。真実心すなわち至誠心をめぐり善導が提示した指示つまり手引きは、以下である。「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を抱くことを得ざれ」(私訳 内面で疑心を抱きながら、外面を隙なく仏智を信ずるがごとく装おうとするな)

 やや乱暴な翻訳をすれば、疑心を抱いて善人ぶるな、ということになろう。内面に疑心があるなら、外に現れる行がいかに信心深そうに見えようとも、すべては、疑心という雑毒の混入した善でしかない、そのような「雑毒の善」「雑毒の行」をいくら仏に回向しても、往生はまったく不可能である。回向すべきは、毒の混じらない清浄な善だけである、と説くのである。

 内と外は、賢善精進の相において、一致していなければならない、というのが善導の趣旨なのであった。

 親鸞は、これでは自業自得の誘惑に対する抵抗力にならないと見て取った。それどころか至誠心の解釈において、善導の説く指針は、自力なのである。親鸞にとって、善導の至誠心は、根本からひっくり返されるべき、信心の優等生の考え方であった。

 では、具体的にどうすればいい? 親鸞の方法は明瞭であった。愚禿という徹底した劣等生の自己規定を軸にした転倒である。転倒とは、根底的書き換えである。

 親鸞は、善導のこの手引きを前に、「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。」と述べ、続けてこう書いた。「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり、/愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。」(『愚禿鈔』)

 賢者とは善導のことであり、愚禿は親鸞であると想定して、間違いないだろう。「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す」という個所は、善導の説く至誠心に対する親鸞の敬意であり、受け取った刺激であり、同時に書き換えの意欲の表明であったように思われる。

 善導は言った。内は賢にして外は愚なり。すなわち、「外の愚」、言い換えれば、仏に回向する行が、「雑毒の善」に汚されるのを避けるには、内を清浄なる善――賢善精進の相で満たさなければならない、と。

 これに対して親鸞は、「内は愚にして外は賢なり」が愚禿の心だ、と言い切った。内の愚、つまりは、疑心ないし煩悩は、動かしようのない人間の性なのだから、それを外面で糊塗するようなことをするな、賢善精進の相を作るな、と言ったのである。要するに、何もするな、何かすれば弥陀の回向の妨げになる。その結果、行けるのは化土まで。だからはからおうとするな、という主張である。

 賢者と愚禿、この対比が、親鸞のおこなおうとした善導至誠心の転倒すなわち解体のかたちであった。

【第36おわり】南御堂新聞20214月号掲載 / 2022/1/21オンライン公開