第3

和讃の語外にこめた警告

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 親鸞は、『正像末和讃』の末尾の二十三首の主題を、「仏智不思議の弥陀の御ちかいをうたがうつみとがをしらせんとあらわせるなり」、と一言で述べている。

 和讃の主な読者を、念仏の行者であるとみなしてよければ、親鸞は念仏者にむけたこれらの諸作で、警告を発したのであった。その警告の内容は、くれぐれも自業自得の論理に陥ることのないように、というものであった。例をあげて記そう。

 ・自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがえば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃)

 この一首も含め、二十三首の半数近くが、末尾の止めの言葉に、なり、ける、たりなどの断定や過去や完了の助動詞を置いている。二十三首の基本的特徴と言い得るだろう。右の一首の止めは、「ける」であり、過去形である。

 加えて、親鸞の和讃全体に言える事だが、主語が不在なのだ。筆を動かしたのは、確かに親鸞である。だが、内容を指示しているのは親鸞以外の誰かだ。誰かとは人ではなく、信における事実とでも呼ぶべきものではないか。同じ事を別の角度から言い換えると、懺悔の十六首を除くと親鸞の自己感情を、和讃の中のどこにも見出すことはできない。七五調のリズムを採りながらも、詩となることを拒んでいるのである。

 これらの点を踏まえて、一首の大意を思い切って物語風に解してみた。

 「昔、ある国に、念仏者でありながら、自力で善を積み、浄土往生を願おうとした人がいた。その人は、自業自得の論理に陥ったのであり、それはとりもなおさず、弥陀の智恵の不思議を疑ったこと。その罪科により、その人が辿り着けたのは化土であった。浄土へはさらに五百年、閉じられた蓮の花の蕾の中で過ごさなくてはならなかったのである。」

 二十三首、これとほぼ同一のテーマが繰り返されるのである。

 さて、このように解釈してみて、思いがけない、大きな発見があった。その第一は、親鸞が、自業自得という語を、自分の智恵を頼る自力往生と同じ意味に使っていること。それ以外の使い方はしていないのである。「自業」とは自らの善なる行為であり、「自得」とは善行の積み重ねによって自ら獲得した果、自力による往生である。

 一瞬、ポカンとしてしまった。筆者らが、これまで、当たり前のように使ってきた、人を非難し、断罪する、倫理性を帯びた用法とは、まるで異なる語義を持たされた自業自得がここにあるのである。

 もう一首引いてみる。

 ・罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは 疑心の善人なるゆえに 方便化土にとまるなり

 「罪福ふかく信じつつ」は、自業自得の論理を深く信じて、という意味である。かくして大意はこうなる。

 「昔、ある国に、念仏者でありながら、自業自得の論理に深く囚えられてしまい、念仏以外にも善業を積んだ方がより浄土に近づけると思い込み、努力した人がいた。しかし、その人の着地できたのは化土。弥陀にすがりながら弥陀の力を信じ切れなかった、疑心の善人のゆえであった。」

 親鸞が二十三首の和讃の言外にこめたのは、自業自得の論理は、弥陀の力を疑うほどに、それほどまでに誘惑的であるということである。このことは、行者らが、それほどまでしても、要するに自力を利用してまで、浄土往生をとげたいと願っていたことを物語っていた。親鸞が執拗に警告を与えたのは、それゆえであった。

 ところで、第二の発見である。それは、善人とは、疑心の善人であることを知ったことだ。疑心の善人 ―それは私のことだ― が、自業によって自得できるのは、方便化土まで。

 この理解が、『歎異抄』第三章の、「善人なおもて往生をとぐ」の個所とつながったことである。

【第35おわり】南御堂新聞20213月号掲載 / 2022/1/17オンライン公開