第3

欲望心は“我”への執着

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 昨年、5月、ネット上に小さく報じられたニュースのメモが手元にある。コロナに感染した場合、罹患を「自業自得」とみなすか否かを尋ねた、米英日の比較調査だ。結果は、自業自得とみなす傾向が、日本人は、米英人と比べ、十倍も高いというものであった(神戸新聞5月17日――それぞれ1%、1.5%、11.6%)。

 日本は仏教国だからな、と筆者は思わずつぶやいたのであった。自業自得はここで、罹患は本人の不注意のせい、責任は罹患した当人にあるという意味を持たされている。この言葉にこめられた、突き放すような冷ややかさが耐えがたい。

 では、お前ならどう反応するか、ひそかに自問してみた。すると、きっぱり否と応答できない自分がいたのである。情けないことに、自業自得だと言いかねない自分がいることを知るのであった。

 日本は仏教国だからな、とつぶやいてしまった後、仏教ははたして、こうした否定的な意味合いで自業自得という考え方を広めたのだろうか、と振り返らざるを得なかった。たまたま仏伝(釈尊の生涯)を知りたくて手にしたお経を調べてみた。しかし、この語そのものを見つけ出せなかった。筆者がそこに見たのは、応報思想であった(『過去現在因果経』)。

 「諸衆生を見るに、種類無量なり、此に死して、彼に生まれ、行の善悪に随って、苦楽の報を受く」〈私訳 六道四生を輪廻転生という相で経回るほかない衆生が、「せめて来世では楽を」と願い、すがった救済の論理が、善い行いを積めば後世の楽を得られるとする因果応報説である〉。

 「行の善悪に随って、苦楽の報を受く」という個所を軸に私訳してみた。自業自得の考え方の前身は、この因果応報観ということになろうと思った。だが、記述からもわかるように、これは認識であって、釈尊の伝えようとした仏教でないことは確かだ。

 もう一つ、釈尊が洞察していたことがあった。それは、善悪もそれを生み出す業も、後世の安楽を願う衆生の欲望から出てくるものであるということ。

 釈尊はこう考えた。「一切諸法の本は因縁より生じて、主なし」〈私訳 物事はすべて、ただ関係性(因縁)によって生じ、関係性によって滅するのである。そこでの主体は関係性(因縁)であり、衆生の誰彼の行為(業)などではないのである〉。

 ちなみに親鸞は、この部分について、「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるを」(『歎異抄』第六章)と解いている。

 この真理を洞察できるなら、生死を離れることは容易である。洞察は教える、因縁を断ち切りなさい、と。こうして必然的に出家が課題にあがってくる。念仏の始源としての出家。ところが、こうした洞察を妨げる要因を、衆生は自ら作り出しているのである。欲望(情)である。欲望心は、「我」への執着と言い換えても同じだ。

 釈尊は語る。「一切衆生の悉く我に著し所以に輪廻して、生死に在り。」〈私訳 生老病死の苦を逃れたい、衆生はそう欲望する。そうした欲望心が、来世のためにと業を生む。それがいかに善行であろうと業につながれているゆえに、いつまでたっても輪廻を繰り返し、生死を離れることができないのだ〉。

 ところでここまで記してきて、あらためて大切なことに気づいたのだった。それは、因果応報説は釈尊の教えではないこと。そしてこの説にすがった衆生もまた、因果応報を、負の感情でもって語ることをしていないという点。すなわち悪業、悪行と、その結果の苦の報いというストーリーを強調している個所はどこにもないことである。

 そうだったのか、と思った。親鸞の作った自業自得(=罪福)を主題にした和讃八首のわかりにくさがこれで解消するかもしれない。

【第34おわり】南御堂新聞20212月号掲載 / 2022/1/13オンライン公開