第3

自業自得という発想

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 業について考えてみたい。

 「くわこ世わがひとをあやめしげん世わがALSとこだませるかや」

 現代語に直すと、「過去世我が人を殺めし 現世我がALSとこだませるかや」となる。作者は渡辺松男、2012年、歌集『蝶』によって迢空賞受賞。右の歌は、受賞第一作三十二首の中の一首である。

 歌意は、末尾の詠嘆の助詞「かや」を疑問の意に解するか、反問の意と取るかによって、様相を変えることが知れる。疑問の意に取れば、こうなる。今の世に私がALSで苦しめられているのは、私が過去世で犯した殺人が因となっている、そういうことなのだろうか。反問の意に取ると、以下のようになろう。今の世に私がALSで苦しめられているのは、私が過去世で犯した殺人が因となっている、というのは、ほんとうだろうか?(そんなことがあろうはずがない。)

 もう一つ、類似の歌をあげてみる。

 「ありし日は我こそ人をうとみしかその天刑を今ぞ身に疾む」

 作者は癩を病み、癩に死した明石海人、歌集『白描』(1939年)に収録された一首である。歌意は、こうなろう。きっと昔、この私はゆえなく人を疎外し、排除するようなことをしたことがあったに違いない。神はその罪にふさわしい罰、癩病という排除刑を私の身に与えたのだ、そのことを今知るのである。――癩患者は法によって専門療養院に隔離された。この隔離をもって、自らの境遇を、歌人は「人間の類を逐はれて」と詠ったのだった。

 「人間の類を逐はれて今日を見る狙仙が猿のむげなる清さ」(『白描』)

 ALSと癩、難病が、二人の歌を否応なく実存的にしている。難病という言葉を使った。がんは重病である。しかし、難病ではない。誰もがかかるし、治療手段もあるからである。難病は、治療困難な希少疾病を指している。人のめったに罹ることのない、特異な症状を呈する重病ということになろうか。それゆえに、難病に罹った患者は、ときに人間界を追放されたと思うほどの、絶対的な孤独感へと引きずり込まれるのであった。

 孤独な自我は自問する。なぜよりによって私だけが、こんな目に遭わなければならないのだろうか? いくら自問しても、答えを見つけ出すことはできない。合理的、理性的には、偶然の連鎖が生み出したものという結論にたどりつくことはできよう。しかし、それで慰めを得られるかと言えば、話は別である。むしろ病者は、難病を得るにふさわしい、己に固有の物語やドラマがあるはずだと考えてゆくのである。

 二人の歌人も時を隔てながら、同じように自問し、同じような物語、ドラマに辿り着いていることがわかる。すなわち「自業自得」というストーリーである。自業自得という発想は、過去世や天といった、現に生きている場所とは連続していない、超越性と手を携えているという点で宗教的であると言えよう。

 具体的には、業が呼び出される。業とは過去の行い、それも悪しき行い、悪業である。疑いの目を向けつつも、現世の出来事を過去世における業と結びつけ、ALSとの間に因果の結び目を見つけようとする渡辺松男。明石海人の「ある日」は、過去世と言い換えてもニュアンスは変わらない。明石海人は、過去になした己の悪業が、そっくりそのまま今の己の境遇にかえってきているところに、天の関与を認めている。ここには倫理性が露わになってきている。どちらの歌人においても、難病は業病に転じたのだ。

 ところで親鸞は、和讃に繰り返し書きつけているように、「自業自得」という発想をイデオロギーとしてとことん退けたのであった。

※編集部注 癩=ハンセン病 1943年に治療薬「プロミン」が開発されるも、患者の隔離をうたった「らい予防法」が廃止されたのは1996年であった。

【第33おわり】南御堂新聞20211月号掲載 / 2022/1/11オンライン公開