第3

絶対的な無力感の自覚が

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 ALS患者安楽死事件に関して、筆者の中に、二つの「なぜ?」が消えないでいる。一つは患者のHさんが人工呼吸器を装着していなかったらしいこと。もう一つは、Hさんを安楽死に導いた二人の医師たちが、彼女に人工呼吸器を進めた様子がないことである。

 最初の疑念に関して、筆者の切り抜いた新聞記事に、こうある。国内のALS患者約1万人のうち、人工呼吸器を装着する人は、全体の一割強である。―――つまりは、ALS患者の大部分は、自発呼吸が不可能になった時点をもって、己の死とみなしている、延命装置に頼りたくないというのである。

 こうした現実の指摘に驚きはなかった。十余年前のこと、老衰で口から食べ物を摂れなくなった時点をもって、己の死の時期とみなし、胃ろうの設置を拒むべきだとする考え方がもてはやされたことがあった。場面こそ違え、そっくり同じ思考の型がすでに出来上がっていたからだ。

 医療技術による延命を拒む、何らかの力がはたらいているのだ。もし自分がALSに罹ったら、そうした無形の圧力に抗し、人工呼吸器装着を言い出せるかどうか、高齢の筆者は、心もとないのであった。医師たちが、Hさんに人工呼吸器装着を進めようとしなかったことの、強力な背景がここにあると思った。

 ところで、医療は、すべての病人を救けたいという精神を基盤としている。同時に、にもかかわらず医療に従事する者は、しばしば治療不能という事態に直面する。『歎異抄』第四章で、親鸞が突きあたっていた難関は、構造的にこれと同一であった。

 「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」(私訳 すべての病人を救けたいと思っても、今の医療技術の力〈=聖道の慈悲〉では、どうにも救けられない患者がいるのである。)

 二人の医師たちのHさんにとった態度は、もはや治癒不能の絶望状態であるゆえに、すみやかな死を、というものであった。だが、こういう姿勢には、生命について、認識上の重大な欠落があることを感じさせる。具体的に言えば、このような限界に直面した場合に、医師と患者双方が見舞われたはずの情動に、彼らが無関心であると思えることだ。

 では、その情動は、どんなものか。この点については四章の、「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」「いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ」という言葉を噛みしめることで、容易に知ることができる。

 ここに表わされている心理の一面は、患者を前に、匙を投げざるを得ない医師のやりきれなさ、「救へないことへのあきらめ切れない感情」ということになるだろう。ということは、この感情の裏側に、患者が抱く自己存在への、「救われないことへのあきらめ切れない感情」が張り付いていることが見えてくるのではないだろうか。

 「この慈悲始終なし」とは、患者・医師、双方が自覚せざるを得ない、人間存在の本質的限界、言い換えれば、絶対的に無力であることの悲しみが言わせた言葉だ。医師たちが、この悲しみに思いを寄せることができていたなら、安楽死を進めるのではなく、せめて呼吸苦を取り除ける可能性のある人工呼吸器の利用を提案できたはずであった。

 絶対的な無力感の自覚は、他力への契機である。そのことを親鸞は「しかれば」という言葉で表そうとした。

 親鸞は続ける。「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」(私訳 人間存在がいかに無力であることか、そのことの悲しみに存分に打ちひしがれるがいい。そのとき人は弥陀の声を聞くであろう。そして知るであろう、念仏を称えることだけが終始一貫したほんとうの力であることを。)

【第32おわり】南御堂新聞202012月号掲載 / 2022/12/31オンライン公開