第3

医療という聖道の慈悲

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 昨年(2019年)11月30日、寝たきり状態にあるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者Hさんが突然亡くなった。不審死であった。解剖の結果、何者かによる多量の睡眠薬投与が原因であることが判明した。今年7月23日、この件に関して、四十代の医師人が嘱託殺人の疑いで京都府警に逮捕された。人は、安楽死を切望するHさんとネットを介して知り合い、その手助けをしたというのだった。

 Hさんは、ネット上に、ALS特有の絶望的な症状とともに、安楽死を、自分にとっての唯一の生きる希望であるという趣旨のことを、繰り返し投稿していた。

 「体は目だけしか動かず、話すことも食べることもできず呼吸苦と戦い、寝たきりで窒息する日を待つだけの病人にとって安楽死は心の安堵と今日を生きる希望を与えてくれます」。そしてこうも書きこんだ。「安楽死が必要だと言う声をあげる医療者が一人もいないことがとっても不思議」。

 こうしたHさんの切実な思いがこめられた挑発に、先の2人の医者のうちの一人が応答したのだった。「安楽死について訴追されないならお手伝いしたいのですが」。

 Hさんは返信した。「うれしくて泣けてきました」。医師は誘った。「当院にうつりますか?自然な最期まで導きますが」。Hさんは返した。「決意したらお願いします」。

 2人は、このようなやりとりを経て、接近して行ったのだった。

 安楽死に関しては、自殺問題の一環として、長い間、いささかの注意を払ってきた。他方、ALSについては知るところはほとんどない。その貧しい知識しか、持ち合わせない筆者が、新聞の切り抜きをしつつ、おや?と首をかしげたくなるようなことがあるのに気づいたのである。ほかでもない、Hさんが、人工呼吸器を装着していなかったという一点である。

 気管切開して人工呼吸器を付けたALS患者が語る経験的事実によると、呼吸器装着により、息は格段に楽になる。呼吸苦から解放され、何もしなければ遠からず訪れる窒息死という結末を回避することができる。活動の意欲も機会もぐんと増えるのである。

 装着すれば、Hさんの強い安楽死願望は消滅したはずだと言うのではない。依然として死への願望が維持され続けたかも知れない。

 気になることが二つ、残っている。一つは、Hさんが人工呼吸器を装着しなかったのはなぜかということ。もう一つは、新聞報道で読むかぎり、Hさんを安楽死に導いた医師たちが、彼女に人工呼吸器装着を進めた様子はうかがえなかったことだ。これらについては項を改めて考えてみたい。

 さてここまで述べてくると、「聖道の慈悲」の意味とその限界を説く、親鸞の声がはっきりと聞こえてくる。「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」

 「今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」(『歎異抄』第四章)

 私たちは知っている、医療とは、患者を癒すべく、技術にまで練り上げられた聖道の慈悲(現世の慈悲)の現在形のことである。医師とは、聖道の慈悲の下でその知識と技術を体得した者のことだ。ゆえに医師は、聖道の慈悲から遣わされた使者の役割を負っているということ。そして、現段階でALS患者を救える聖道の慈悲は全世界に皆無であるということ。

 「こんな身体で生きる意味はないと思います。日々の精神・身体的苦痛を考えると窒息死をまつだけなんてナンセンスです。これ以上の苦痛を待つ前に早く終わらせてしまいたい」。

 これは言葉ではないだろう。医療という聖道の慈悲に見離されたALS患者Hさんが、ネットという空無の闇に向けて発した絶望の悲鳴なのである。

【第31おわり】南御堂新聞202011月号掲載 / 2021/12/28オンライン公開