「共通の発生要因として」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず」。(『歎異抄』第十三章)

 どう訳したらいいのか? 迷いつつとりあえず、こう大意を汲んでみた。

 「私だって同様な殺人をここまですでに百回だって犯してきてもおかしくないはずなのに、そうしないですんでいる。なんと不思議なことではないか」(私訳)

 なんだかもろニーチェっぽい捉え方だなあ、などと呟きながらも、一方で、このような恐るべき認識を口にできるようになるまでの親鸞について、考えあぐねてきた。

 少しだけ自分のことを語るのを許してもらいたい。私自身の長い批評活動を振り返ってみると、あきもせず犯罪について考え続けてきたものだなという感懐が湧いてくる。そこでなぜ惹かれるのか、自身を問い詰めてみたことがあった。30年以上昔のことである。

 最初に出した答えは、単純そのもの、行為に対する驚異の念である。驚きの感情にはすぐに、嫌悪と恐怖がつきまとってくる。嫌悪は主に、事件のむごたらしい様相に対する反応であり、恐怖は、こんなことまでしでかしてしまう存在はいったい何ものなのだろうという不可解さに源泉があった。しかし、これだけなら、批評家としての私の好奇心は、いつか醒めてしまったであろう。けれども驚きにはまだ先があったのだ。

 ある日、事件に関心を抱くということが、自己の未知の部分、心の奥深い闇の部分に、光を当てられることでもあることに気づいた。と、その途端、一瞬だが何ものかが闇の中にうずくまっているのが見えたのだ。ぞくりとした。そして、瞬間的に悟ったのだった、自己への戦慄、これこそが、犯罪に惹かれ続けてきた根本の理由であるということを。

 私は、「何ものか」に語りかけられたのである。言葉にすれば、次のようになるだろう。「お前の感受したその何ものかから目をそらすな、しっかりと見ろ、それが俺だ」。以後、私の姿勢は揺るがなくなった。――

 ここまで書いてきて、はっとした。親鸞もまた、私と同様に、自分の胸の暗闇にうずくまる「何ものか」に気づき、深く怯えたことがあったに違いない。その「何ものか」から「目をそらすな、しっかり見ろ、それが俺だ」と語りかけられた人だったのではなかったか、そのような直感が脳裏をかすめたのである。

 ここからは推測である。おののきつつも親鸞は、さらに一歩、踏み込んで行った。すなわち、内なるその「何ものか」に話しかけたのだ。幾度となく対話を繰り返したのだ。そして、とうとう、「何ものか」は自らの正体を親鸞に、親鸞だけに、明かすに至ったのである。

 「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。…また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」(同)

 冒頭の引用を踏まえて訳すと、

 「同じような罪を私が犯していても当然なのに、なぜか私は犯さず、あの人が犯してしまったという不思議、この不思議を解く、決定的な鍵を見つけた、業縁である」(私訳)

 「業縁」とは何かについては、後回しにしよう。驚嘆すべきは、この「何ものか」が授けてくれた鍵「業縁」を、親鸞は、大胆にもあらゆる犯罪のど真ん中に、これなくしては起こりえない共通の発生要因として据えたことである。親鸞は言った。

 「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくる、つみの、宿業にあらずということなしとしるべし」(同)

 「断言しておこう、宿業の関与なくして、罪と名づけられるいっさいの行為が犯されることはけっしてないのである、と」(私訳)

 「宿業」は「業縁」と同じ意味である。この断言命題によって親鸞は善悪の彼岸へと頭を出したのだと思う。

【第おわり】南御堂新聞20185月号掲載 / 2021/09/16オンライン公開