第2

「人びとの念仏観に潜む病

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 唯円は、念仏の他力性を徹底して突き詰めるうえで、不可欠かつ重要な場面を三つ用意したのだった。これらの場合はいずれも、人びとの念仏観に共通して潜む長年の病い、言わば〈宿痾〉に対する、容赦のない荒療治、とでも呼びたいような様相を呈したのであった。

 三つの場面の一つ目は、親鸞が、関東の念仏者たちの面前にて、念仏と浄土往生との因果関係を断ち切ってみせた個所である。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」

 (私訳 念仏すれば浄土に往生できるのか、それとも地獄に堕ちることになるのか、私にはまるで関心がないことです。第二章)。この場面については、すでに造悪論と合せて触れた(第19回)。

 二つ目は、唯円自身が、一声の念仏で八十億劫の罪を取り除くという滅罪の念仏を、自力の功利的念仏観であると退けた場面である(「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、…いまだわれらが信ずるところにおよばず」。第一四章)。この場面については、前々号および前号で述べた。

 三つ目が、これから取り上げる第九章である。若い唯円の、親鸞を前にしての思いきった苦悩の告白に始まるこの場面は、唯円への親鸞の心底からの共感を経て、親鸞の根本的念仏思想の披瀝へ向かうのである。

 具体的に示してみよう。冒頭で唯円は、こう切り出した。「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」

 (私訳 自分はこれまで一心に念仏を称えてきたつもりです。それなのに、これまで一度も、体の芯から溢れ出てくるような歓びに思わず踊りあがってしまったという体験をしたことがないのです。そのせいでしょうか、急いで浄土にまいりたいという気持ちになったこともありません。これはどうしたことでしょう。私の念仏に何か問題があるのでしょうか。)

 唯円が、こうした悩みをひそかに抱え込んで、口外できずにいたのには、理由があった。一つは、お経にも書かれ、念仏者の間で信じられ、念仏者なら誰もが経験しているに違いない、念仏過程において出現するとされている、こうした悦楽――踊躍歓喜や疾く住かばやといった強い離脱感――が自分だけにはまだ訪れていないという事実を、突きつけられることへの怯えである。

 (これでは自分は、念仏者失格ではないか、という除け者意識と言ってもいいかも知れない。)

 もう一つの理由は、こんなことを口にしたら、師に、その信心不足をきびしく叱責されるのではないかという恐れである。キミは、まだそんな地点をうろうろしているのかね。…だが、このときの唯円は、迷わなかった。親鸞の前に、悩む自分をさらすことの方が大切だったのである。唯円のこの告白は、念仏の概念を根本から塗り替える契機となったのであった。

 親鸞の反応は、唯円の想像をはるかに越えていた。叱られるどころか、親鸞はこう応じたのだ。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、…」

 (私訳 いやあ、これは驚いた。唯円よ、キミもだったのか。実は私も同じ悩みを悩んでいたことがあったのだよ。これだけ一心に称名している自分に、念仏の悦楽が訪れないのはどうしてかってね。事情はいまも変わっていない。けれど、じっくり考えた末に、悩みは払拭できた。結論はこうさ。念仏で悦楽が訪れたら、かえっておかしいのだ。そのような念仏は他力念仏ではないのである。――というのも、…)。

 この続きは次号で。

【第29おわり】南御堂新聞20209月号掲載 / 2021/12/17オンライン公開