第2

「最劣等者の己への自覚」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『歎異抄』第十四章で唯円は、一声の念仏は八十億劫の罪を滅する、十声はその十倍の罪を減じる、このような滅罪の利益を説く念仏を、「いまだわれらが信ずるところにおよばず」という言い方でもって退けた。この言い方にこめられているものが、滅罪の念仏に対する唯円の見分け、すなわち判定であった。

 こう書いたところで、はたと、思考が止まってしまった。唯円が用いた見分けの言葉、「いまだわれらが信ずるところにおよばず」というセンテンスの語る意味が、よくわからないのである。唯円は、自らの念仏観を軸に、そう見分けた。だが、悲しいかな、この章に記されているはずの、その見分けの基準、唯円の念仏観が、筆者には、すぐにはつかみがたいのである。

 前号で、滅罪の利益を目的とする念仏について、功利的であること、功利を動機にするかぎり、念仏は、自力称名、自力念仏とならざるを得ないという唯円の理解を紹介した。そこを足場に、唯円の念仏観に探りをいれてみよう。手がかりは「およばず」の一語である。

 十四章全体を繰り返し眺めていると、唯円が見分けの基準として用いた「およばず」の語には、意味として、二つの側面があるように思われてくる。

 第一のものは、念仏をネタに主張されている、自力の信心に対する他力信心の絶対的優位性の表明である。滅罪の利益を目的とした念仏は、往生つまり生死の離脱を願って称える他力念仏の前では、ほとんど無意味に等しい、自力のいとなみにすぎないというのである。

 その理由を唯円は、こう述べている(第十四章)。

 弥陀の誓いそのものである名号を一心不乱に称える時、金剛の信心(=信心決定)をたまわるのである。金剛の信心をたまわったということは、弥陀によって、すでに固く往生を約束されたということなのである。滅罪の念仏では、このような定聚のくらいに至ることは絶望的に不可能である。――これが第一の「およばず」の意味である。(「そのゆえは、弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり」)。

 このことに関連して、もう一つ、浮かび上がってくる「およばず」の意味がある。凡夫としての自覚がそれである。とことん愚かで、無力な自分は、善行への意欲と努力という点において、自力念仏者の足元にも遠くおよばないという、最劣等者の己への自覚。

 「この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもいて、」(私訳 もし弥陀がこの悲願=本願をわれらの前に差し出してくださらなかったら、現世で救いようもなく劣等なわたしなどは、生死の境を永劫にさまよい続けていたことであろう。十四章)。

 唯円がこのように言う時の、「かかるあさましき罪人」が、この場合の凡夫の自覚に相当していることが明らかに知れる。この自覚が生じたとき、「およばず」の意味の二つ目の側面は、見出されたことになるだろう。他力の絶対的な優位性は、己の絶対的劣位性の自覚によって、はじめて信心としての生成をみるのである、唯円はそう言いたかったのではないだろうか。

 この個所を読むと、「この悲願」と「かかるあさましき罪人」、両者の間には超無限とも言うべき懸隔が横たわっているにもかかわらず、不可分に直結していることが感じられるのである。一方を欠いて、他方はないということなのだが、唯円の説く肝心なことは、生きとし生けるものの側からは、己の絶対的劣位性の自覚に基づく他力という姿勢、態度の選択によってしか、こうしたつながりは生じ得ないという点なのである。

【第28おわり】南御堂新聞20208月号掲載 / 2021/12/15オンライン公開