第2

「功利的念仏観の限界」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『仏説観無量寿経』に、いよいよ、死ぬという段になって、絶対の窮地に追い詰められた最悪(下品下生)の愚人の話が出てくる。男には、五逆・十悪をなしてきたが故に、死後、ただちに地獄堕ちが待っているのだ。恐怖と絶望にふるえる男の前に、救世主(=善知識)が現れる。そして告げるのである。仏の名を称えなさい。南無阿弥陀仏とでも、無量寿仏とでもいい、声が続くかぎり、絶やさずに。

 一回の念仏は、キミの作った八十億劫の罪を取り除いてくれよう。十回称えれば、その十倍、十八十億劫の罪を滅してくれる。そのように称名を続けることによって、キミの罪は消え、死ぬやいなや、金蓮華をみるであろう。すなわち極楽世界に往生したのである。――

 念仏には、すこぶる強力な滅罪のはたらきがある、とここには記されている。罪多き生をおくってきたとひそかに悔いる者にとって、このように認められる念仏は、実に魅力的である。だが、唯円は、観経のこの個所をめぐり、はっきりと「いまだわれらが信ずるところにおよばず」と述べているのである(『歎異抄』第十四章)。

 筆者の解釈では、唯円は、これは信心の念仏ではない、と言いきったのだ。

 日ごろ念仏しない者が、たまたま善き人に出会い、念仏の効用を教えられた。それはいいことを聞いたとばかり、さっそく実行してみたら、効き目があって、地獄どころか極楽に往生できた。観経の念仏観は、このようなものだ。つまり、念仏と念仏の効用としての滅罪を、因果の糸で結びつけただけの、言わば、功利的念仏観でしかない。親鸞聖人に教えられた、信心そのものとしての念仏ではないと言うのである。

 これには、まいった。筆者の念仏は、まさに唯円が念仏ではないと言い切った、功利心から発したそれであったからなのである。

 唯円はまた、滅罪の果てに往生する――生死を離れる――のに利用される念仏には、それ自体において根本的な限界がある、とも述べる。

 動機の功利性からして、念仏は、罪のうしろを追いかけるかたちにならざるを得ない。先行する罪を、念仏によって滅する、それを繰り返しながら、往生しようとはからうのである。必然的に念仏は自力念仏となる。こうした自力のはからいは、当然、臨終に至るまで持続されなければならない。

 何をおいても、それが徹底されるのなら、そのとき、こうしたはからいは信心となるであろう。けれど、その意志の努力が、必ずしも首尾よく運ぶとはかぎらないのである。

 はからいの首尾が一貫しない理由として、唯円は「業報」をあげる。

 その人の内に知らず知らずに積もった、遠い過去から現在に至るふるまいや生き方に付着したよごれや澱、これを業報ないし業報の核を作すものと言えれば、この業報に、今ここでの「こうしたい」という意志は、脅かされずにいない、というのである。「はからい」には、予期せぬ事態となって現れる、こうした業報のはたらきが計算に入っていない、そう唯円は言うのである。

 重い病気にかかった場合を考えてみよう、と唯円は言う。激しい苦痛に苛まれ、そのため念仏は途切れ、他方、この間も、業報は作用し続け、罪を生み出している。このような罪は、いつ、いかにして消し去るのであろうか。消えなければ、往生はできないことになってしまう。信心は、業報において崩されてしまうのだ。これが唯円の指摘した功利的念仏観の限界であった。

 では、唯円の言う「われら」においてはどうか。罪人の自覚は、自力の行者と同じである。だが、繰り返せば、「われら」の念仏は、罪のうしろを追いかけるものではない。また、業報に毫も影響されるものでもない。我らの念仏は、自力ではないからだ。それはどんな念仏なのか。これが次の問いである。 

【第27おわり】南御堂新聞20207月号掲載 / 2021/12/10オンライン公開