第2

「植松聖に届けたい言葉」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 深刻な病状をもたらす新型コロナウイルスの、信じがたいほどの感染力に、この国の人びとが脅威をおぼえ、あわてふためき、対策を講じ始めだしたころの3月末日、一つの裁判が終わった。3月16日、相模原障害者殺傷事件の被告植松聖に、死刑の判決が出た。弁護側はそれを不服として控訴。だが、被告本人が控訴を取り下げ、31日、死刑が確定したのである。

 控訴取り下げは、もっと問題になってしかるべき出来事であった。パンデミック(感染症の世界的大流行)がそれを吹き飛ばしてしまったのである。ウイルスがやや勢いを減じてきた感のある今、植松聖のこの決断をめぐり、メモを作っておきたいと思った。

 植松聖は、控訴取り下げの理由を、新聞記者にこう語っている。「一審だけでも長いと思いました。二審、三審が行われるのは嫌だ。これは文句ではなく、裁判はとても疲れるので負の感情が生まれる」(3月30日午前の毎日新聞社記者の接見 31日報道)。

 裁判は長いから疲れる。疲れるのはもうごめんだ。だから控訴はしない、これが趣旨だ。横浜地裁での公判数は全17回。今年、1月8日初公判、2月17日求刑、19日弁護側無罪主張、同日結審、飛んで翌月16日刑の言い渡しと、超短期間、超過密日程で進められた。

 植松聖は、こうした進行を、とても長いと感じたのである。長いであろう。障害者19人殺害、26人に重軽傷を負わせるのに、彼が要した時間はおよそ45分であった。

 記者は訊ねる。控訴を取り下げれば死刑が確定する。上訴すれば、結果は棄却であっても、その間は生きることができる。疲れるのと引換えに得られるその時間は、あなたにとって、短いとは言えないが、貴重なものではないか、と。植松聖は、そのとおりだ、だから、葛藤はあると答えた。それでも、もう裁判は嫌だと言うのである。ただし、取り下げたからと言って、「死を受け入れているわけではない。死刑をみとめているわけではない」と補足する。

 取り下げると、死刑が確定するが、と記者は、再度確認する。植松聖は、「しょうがない。安楽死すべき人の心境がよくわかる」と答えた。安楽死すべき人とは、植松聖が、生きるに値しない命だから安楽死させるべきであると主張してやめない重度の障害者のことである。ここで初めて、植松聖は、殺される者の立場に触れたのだ。

 生きたいか、という記者の最後の問いに、植松聖は、うなずいたという。むろん、裁判のないところで、ということであろう。

 死よりも強く、植松聖が休息を欲しているのを感受する。こう記したとき、植松聖は、生死を離れたがっているのだという思いが背筋を走った。生死を離れたいのに、その道がわからず、途方にくれている植松聖という像が見えたと思った。すぐに、次の言葉を植松聖に届けられたら、と思ったのだった。

 「まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず」(『歎異抄』第十三章)

 植松聖よ、この言葉は、キミの犯した悪を正当化しているのではない。差別に発するとてつもない悪を犯したキミも、他と区別することなく、生死を離れられるようにしよう。浄土に迎え入れようと、弥陀は申されているのだ。これを本願と言う。

 「さればよきことも、あしことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」(『歎異抄』第十三章)

 キミは、業報(=宿業)すなわちそうなるほかない関係の必然性に追立てられ、悪を犯した。その意味で、宿業の恐ろしさをよくよく認識しなければなるまい。そして、本願を心からたのむがいい。そうすれば、今すぐにでも、キミを生死の苦海から救い出してあげよう、弥陀は、そう申されているのである。

【第26おわり】南御堂新聞20205・6月合併号掲載 / 2021/12/7オンライン公開