第2

「信心の外套をまとった取引」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 寺社に詣でたおり、境内の目より高い位置に、お布施(施入物)をした人の名前と金額を記した木札が、金額の多い順にずらり並んでいるといった光景に出くわすことがある。中には、額が多いと大きい札、少ないとそれなりの札というところもある。賽銭箱に小銭を投げ込むだけで大それた願い事をする筆者など、これを目撃すると、身が縮む思いがしてきて、いたたまれなくなる。ときに来なければよかったと後悔がやってくる。

 筆者は、お布施は、寺院や僧侶の暮らしが立ち行くために不可欠であると考えている。それゆえたくさんお布施をする人を、寺院や僧侶が大事にするのは、当然であると思う。感謝の意味を込めて、名前と金額を記した札を境内に貼りだす、というのもわからないでもない。では、なにが問題なのか。寄進する側、される側、双方において、こうした行為が信心と結びつけられているらしいこと、この点である。

 お布施が信心と結びつけられた途端、そこに取引が顔を出す。信心が経済行為に転じるのである。『歎異抄』を読むと、信心の外套をまとった取引について、すでに唯円が本質的な答えを書いていることを知る。第十八章である。

 寺院や僧侶にたくさんお布施する人は、往生後に大身仏になる、少ない人は小身仏にしかなれない。このようにお布施の効果は絶大で、往生後の違いとなって出てくるのである――そんなことを説く人がいる。唯円はあきれ顔で、反駁する。この人は、信心を取引(=交換)と勘違いしている。だが、と唯円は続ける。いかに高価な財物を仏前に供し、師匠にも施そうとも、それらはいっさい信心の代わりにはならないし、助けにもならないのである。なぜなら、阿弥陀仏に届かないからだ。弥陀は物など少しも欲しくないのである。

 弥陀がのぞむのは、本願を心から信じ切り、頼る気持ちなのである(「一紙半銭も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ」)。

 後序の冒頭において、唯円はもう一つ、信心が直面する厄介事に決着をつけるべく、故親鸞の法然門下時代のエピソードを持ち出したのであった。唯円は述べる。

 《亡き親鸞聖人のお話の中で鮮明に記憶していることがあります。法然聖人のお弟子であった時代、善信の名で呼ばれていた頃のこと。若き聖人は、御同朋達の前で、「善信の信心も、法然聖人の信心も同じである」と口にしたというのです。すると、即座に猛反発をくらった。「法然聖人の御信心と善信房、お前の信心が同じであってたまるか」。

 そこで聖人は、「知恵才覚の点で法然聖人と同じだと言ったのなら、非難されてしかるべきでしょうが、私はただ、往生の信心において異ならないのではないかと申しているだけなのです」、そう抗弁したそうです。しかし、聞き入れられず言い争いになり、やむなく、法然聖人の裁定をあおいだ。すると法然聖人は、こうお答えになられたと言います。「私源空の信心も、善信房の信心も、如来にいただいた信心である。だから、同じなのだ。別の信心だと考える方は、私がまいろうとしている浄土へはきっと、まいることはないでしょうな」。》

 御同朋達は、師の関心を買おうとするばかりに、師にすりよろうとしている。弟子の善信より、師法然を選ぶことによって、自分も師に選ばれたいと算段している。これは法然との取引である。知らず知らずのうちに本願の教えに反し、人を選んでいるのである。そのぶん、信心の外に出てしまい、自力へと傾いている。同朋達は、そのことに気がついていない。

 他方、善信=親鸞はまったく取引をしようとしていない。まっすぐ顔を本願に向けている。法然は、誓願の前の平等を会得している善信に、ほんものの他力念仏者を見たと思ったに相違ない。

【第25おわり】南御堂新聞20204月号掲載 / 2021/12/3オンライン公開