第2

“未生怨”と呼ばれた男

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 半年前の5月28日、神奈川県川崎市の登戸駅付近の路上で、私立カリタス小学校のスクールバスを待っていた子ども、保護者らを、54歳の男が刃物で襲い、二人を殺害、自らもその場で自害して果てたのだった。事件の目的を、巻き込み型自殺だとみなした人たちは、ネット上に、「死ぬなら一人で死ねよ」という非難の言葉をいっせいに書き込んだのだった。

 3日後の61日、東京練馬区で、76歳の元農林事務次官だった男が、長年引きこもった状態にあった40代の息子を、睡眠中に殺害するという事件が起きた。父親の供述は、こうであった。その日、近くの小学校で朝から運動会が行われていた。息子は騒音に腹を立て、ぶっ殺してやると激してきた。実際に凶行におよんだらと不安に駆られ、阻止すべく包丁を突き立てた。――

 ネットをはじめメディアの反応は、おおかた父親に同情的であった。自分も同じ立場なら同じ行動をとったかも知れないという共感の声、さらには息子の罪を未然に防ごうとした責任感ある行為という称賛の声も聞こえてきたのであった。

 7月13日、1998年に始まった私たちの集いの場「養育を語る会」の例会(第119回)で、私はこれらの事件についてのレポートを行った。報告後、50代と60代の二人の男性会員が、父親の行動に根本的な疑念を投げかけたのであった。

 父親は、自分が息子に殺されるという道を選ぼうとしなかったようだ。これはどうしてか。このような場合、自分なら息子を殺すよりも、息子に殺されることで阻止するだろう、というのだった。

 私はと言えば、父親の釈明に濁ったものを感じていた。理由は、明らかに直前に起きた登戸事件を念頭においての犯行であったと思われたことである。我が子が人を殺傷しようとするような振る舞いに出るのを事前に阻止するという非の打ち所のない大義。この大義に殺された息子は、とても浮かばれそうにないではないか。

 だが、私の思考はここで止まっていた。これでは一方的な批判にしかなっていない。私自身をも刺し貫く観点がなくては話にならない。もやもやとしていたそのとき、親の課題、あるいは役割として「息子に殺される父親」という視点があることを提示されたのだった。

 目の前ががらりと開けたと思った。「息子を殺す父親」は虐待を例に出すまでもなく、歴史上、やまほど例がある。では「息子に殺される父親」は?

 「未生怨」という言葉がせりあがってきた。ずっと以前、はじめて手にした『教行信証』(信巻)の中で出会い、わけもわからないまま私を震えさせた言葉であった。

 未生怨を言葉通りに訳せば、生まれる以前に埋め込まれた父親への怨みによって、生まれて後、父親を殺すことが運命づけられた存在のことである。未生怨と呼ばれた男、それが摩伽陀国の王子阿闍世である。阿闍世はこの世に生まれ、未生怨という絶対的な拘束力にしたがって父王頻婆沙羅殺しを遂行するのである。親鸞は、仏典『涅槃経』にある、父親殺し事件に関する記述を丹念に書き写したのだった。

 『涅槃経』は、父王を殺害してしまった阿闍世のその後を描いている。父親殺しを激しく慙愧する阿闍世を、善友耆婆は釈尊のもとへと導き、釈尊と面会した阿闍世は、釈尊によって父殺しの罪を救われるのである。

 ところで、私の関心は、この親子間の出来事をそうした信心の物語に沿って読むのではなく、あくまで「息子に殺される父親」というモチーフで読むことに向けられたのであった。

 そうだ。「息子に殺される父親」というモチーフは、ギリシャ悲劇、ソポクレスの『オイディプス王』にも描かれていた。この物語も参照してみたい。すると、その『涅槃経』の記述は思いがけない表情を呈し始めたのである。

【第21おわり】南御堂新聞201912月号掲載 / 2021/11/19オンライン公開