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信心決定の核にあるもの

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 『歎異抄』十三章で唯円のふるった力技は、二つある。一つは、宿業と信心は無関係であると言い切ったこと。加えて、本願ぼこりを造悪論と切り離し、信心に欠かせない大切な感情とみなしたこと。信心が内部に根付くための必須の契機として再配置してみせたことである。

 最初に宿業と信心は無関係であると言い切ったこと。

 「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」〈私訳 たとえ本願ぼこりが動機でなされた悪事であっても、その行為を根本で促した力は、宿業である。人は造悪を本願ぼこりと仰々しく非難するが、造善も造悪も本質は宿業なのである。他方、信心は本願と結びついている。本願は、衆生にただ念仏を求めているだけだ。ならば、宿業など意に介さず、ひたすら念仏申すのが信心他力というものであろう〉

 唯円にとって、往生の妨げになるような悪など一切ない、ということは自明であった(「まったく、悪は往生のさわりたるべしとにあらず」)。唯円の念頭には、『唯信抄』の言葉があった。「五逆の罪人すら、なお十念のゆえにふかく刹那のあいだに往生をとぐ。いわんやつみ五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや」〈私訳 五逆という極悪行為に及んだ罪人でさえ、少なくも十度、念仏を称えれば、意識する暇もなく瞬時に浄土に迎え取られるというのだ。五逆に至らない悪事の罪人の往生はなおさら言うまでもないことである〉――

 の聖覚の言葉が力強いのは、本願力への絶対の信に裏打ちされているからだ.そう考える唯円が目の前にしていたのは、それと逆の、本願を前にして本願を疑い、あるいは本願力をあなどるといった念仏者たちの、腰の引けた、情けない姿であった。

 なぜ本願を信じ切ることができないのだろうか。本願に出会いながら、信心決定にいたらない、この自信のなさ、勢いの欠如はどうしたことか。唯円が思いをひそめたのは、この問題であった。ここに唯円の力技の二つ目を見ることができる。

 唯円が見据えていたのは、宿業と切り離した本願ぼこりであった。唯円が真っ先におこなったことは、自分の信心に本願をほこる気持ちがあることの確認である。「かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ」。〈私訳 まるごと煩悩具足の凡夫である私に、現に本願ぼこりの気持ちが起こるのも、本願に出会えたからこそなのだ〉

 唯円は、本願ぼこりを生起させたのは、本願に出会えた喜びだったと述べている。唯円はここからさらに、本願ぼこりの感情は信心決定への推進力であるという理解へと突き進んだ。

 「本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのみ信心も決定しぬべきことにて候へ」〈私訳 本願ぼこりの感情が起こるにつけ、ますます弥陀を頼ろうという他力信心、本願に対する確信がしっかりと定まってくるのを覚えるのである〉

 では、本願ぼこりとはどんな感情なのだろうか。証明抜きで申すほかないのだが、このとき唯円の耳底で鳴っていたのは、親鸞の以下の言葉であったに違いない。

 「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと御述懐そうらいしこと」(後序)〈私訳 親鸞聖人が常々口にされていたこと。「弥陀の本願を考えれば考えるほど、罪人親鸞一人を救おうと起こされたものだという結論になる。そのことの身に余る有難さ。本願は私のための本願であったのだ」〉

 まさにこの本願ぼこりの感情およびその実質こそが、唯円の受けとった、親鸞の信心決定の核にあるものであった。罪人正機は本願ぼこりと別物ではなかった。

【第20おわり】南御堂新聞201911月号掲載 / 2021/11/16オンライン公開