第1

造悪論者への本質的な批判

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 唯円は、造悪を抑止するために親鸞が使った「くすりあり毒をこのめ」という言い方を、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と言い換えた。評者はこれを次のように訳した。「薬があるからといって、わざわざ毒を飲み、病気になるようなことはしてはならない」(第十八回)。

 こう訳してみて、わかったことがある。一つは、唯円は親鸞ほどに、造悪論を拒んでいないということ。もう一つは、拙訳が情けなくなるくらい、平板であるということだ。本願ぼこりのニュアンスを、的確に言葉にできずにいる自分がいるのである。それは、造悪論に対する唯円の考え、姿勢が筆者に理解できていないことの現われに違いなかった。

 「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ、この条、本願をうたがう、善悪宿業をこころえざるなり。」『歎異抄』第十三章の冒頭である。

 〈私訳 「弥陀の本願がいかに悪人正機だといっても、わざわざ悪を造るなどということは、本願ぼこりというものであって、本願への甘えがもたらす行き過ぎであり、とても往生はかなうまい」という言説について。こういう一見、もっともらしい見解は、実はかえって本願の力を疑うところから出てくるのである。それはまた、善悪の行為は各自に内在する宿業いかんによるものだと説いた親鸞聖人の教えを心得ないゆえの言説にすぎないのである〉

 本願ぼこりを、本願を疑う言説よりもずっと好ましいとみている唯円がいる。本願を信じるところからくる、本願自慢という意味合いに捉えなおされていることも伝わってくる。このような角度から「くすりあればとて、毒をこのむべからず」を訳し直せないだろうか。頭を抱え込んでいる評者の脳裡を、ふとよぎったドラマがあった。

 『マタイ伝』第四章、荒野における悪魔とイエスの三つの問答、そのうちの二番目である。かいつまんで紹介する。悪魔はイエスを聖なる都に連れてゆき、宮殿の頂上に立たせて言った。ここから飛び降りろ。もしおまえが神の子なら、神はおまえが地に激突するまえに、弟子たちを遣わし、おまえの体を手でもって支えるようにするであろう。イエスは答えた。自分の神を試すようなことをしてはいけない。

 わかった!と思った。そうなのだ、造悪論の特徴は、本願自慢のあまり、弥陀を試みようとすることだったのだ。「ほら、こんなことをしたって、仏はおれを見捨てやしないぞ」。

 したがって唯円の書き換えは、「汝の仏を試みるな」という、造悪論者への本質的な批判となっていたのである。かくて筆者の訳はこうなる。〈私訳 良い薬があるからといって、効き目を試そうと、わざわざ毒を食らい病気になるような愚かなことはすべきでない〉

 本願の力すなわち弥陀の誓いを試すということ、唯円は、ここに造悪論の、信としての限界を見たのだった。

 唯円は、親鸞の信の基本姿勢の要を熟知していた。念仏よりほかに往生の道を知らないということ。念仏がほんとうに浄土に生まれるたね(因)であるかどうかということについても知らないし、関心もないということ。つまり、念仏と浄土の間に因果関係があるのかないのか、などという詮索は関心外であるということ。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』第二章)。

 唯円にとって、造悪という本願ぼこりは、仏を試し、念仏と浄土の間に因果関係があるかどうかを確かめようとする行為である点で、信を失っており、歎異の対象であったのである。

 信と宿業の関連の問題が残された。唯円が見極めようとしたこの難題に、気持ちをあらためて、とりついてみたい。

【第19おわり】南御堂新聞201910月号掲載 / 2021/11/11オンライン公開