第1回

「思考停止という眠りに」

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 自分の思いではないとわかりつつ、社会の習わしや道徳に流されそうになっている自分に気づくことがある。心が弱まっているのだ。私の中で、思考停止状態が起きているのである。そのようなとき、これまで『歎異抄』を開くことでしのいできた。唯円の著した『歎異抄』は、そうした魂の危機に際し、親鸞がどう対処してきたか、そのもっとも肝心なことを教えてくれていると思ってきた。

 それを一言で申せば、「一人」になることである。たとえば第六章、そこでは親鸞は師と弟子の関係を例に、縁と信とを峻別している。師と弟子の関係は現世の縁が作るものである。信心はそうした縁の外に、「一人」というあり方としてのみ、成り立つのである。弥陀の本願が念仏一つで浄土を約束してくれていること、この唯ひとつのことを、唯ひとりという心において信ずることが信心である。だとすれば、一人とは他力の別名である。

 信を真と置き換え、さらに真をここで人間に関する事実というふうに表せば、ここに近づくには「一人」になるほかない。言い換えれば、思考停止という眠りに入らないこと、社会の価値観に流されることに安堵を感じる、そのような「善人」への誘惑に陥らないために、目を覚ましていること。


 昨年、2017年10月31日、神奈川県座間市のアパートの一室から七つのクーラーボックスに入った合計九体の遺骸が発見された。部屋の借主は、S・Tという27歳の青年。報道によれば8月下旬から10月末までの間に、ほぼ毎週一人ずつ合計9人がこの部屋でS・Tの手にかかって殺害されたというのである。だとすれば、連続殺人事件であり、その犯行者がS・Tということになる。

 マスメディアは、そう断定し、世に希な凶悪な犯行だとして報道した。マスメディアの報道姿勢は、犯罪報道でお馴染みの三段階の二分法である。第一段階で加害者と被害者をわけ、次に加害者を悪人に被害者を善人に振り分ける。そして悪人を一方的に罪ある者として断罪し、善人を罪なき者として同情し、擁護するというものだ。

 報道を丹念に読んでみた。確かにS・Tは9人(女性8人、男性1人)を手にかけ、死に至らしめた。これは事実として動かしがたい。けれど、すぐに疑問が湧いてきた。どんなふうにして9人を部屋にいざなったのだろうか。報道は、言葉巧みに相手の心につけいった、というふうにしか説明していない。

 報道から読み取った私の見方は、亡くなった9人は、孤独に加え、現世を生きていることへの強い疲労感と厭離の感情を抱いていた。S・Tの行為は、そのような人たちを他界へと送り出した、言わば自殺幇助だったというものだ。

 9人の誰一人、S・Tの借りるアパートの一室に入り、死に至るまで抵抗どころか、ためらいさえもあまり示さなかったに違いない。

 確認したくて、出来事が発覚してから一週間後、現地におもむいた。部屋は、2階の5部屋並ぶ真ん中、そこに行くには、まず建物の道路側についているかなり急な階段を上がらなくてはならない。少しでもひるんで立ちどまったら、女性でもそれを押して強引に上がらせることは不可能であることが一目でわかる。まして抵抗すれば、なおさらである。

 私が考えたのはここまでである。S・Tに、なんでそこまでしたのか、訪ねてみたい、そう思った。そのとき、親鸞の声が聞こえたように思えた。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(きっかけしだいで思いもかけない行為に及んでしまう、そんなたねを抱えて生きている、それが人間という存在なのだよ。――『歎異抄』十三章)。人間に関する決定的な真実の一つが言い表されている。いつでもここが、出来事に向かい合うための出発点になるのである

【第1回おわり】南御堂新聞2018年4月号掲載 / 2021/09/14オンライン公開