第1

不可避な“本願ぼこり”

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

  『歎異抄』第十三章は、唯円のものだ、と思った。

 この章は、本願ぼこりを内容としている。では本願ぼこりとは何か。それに触れる前に、本願ぼこりはなぜ生じるのか、という問いをたてておきたい。

 その発生基盤は、信における他力ということの難しさ、易行の難しさに尽きると思う。往生には念仏だけで足りるという思想が、どれほど実行困難をはらんでいるかを物語るエピソードとして、理解してみたい。人は他力あるいは易行という石につまずくのである。

 そして、つまずきは避けがたいということ。唯円は、本願ぼこりという現象を、そのように信をともなう、不可避のつまずきの一つとして位置づけたのである。

 唯円が具体例としてあげたのは造悪である。すなわち、わざわざ進んで悪をなすこと。

 「そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようようにあしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、『くすりあればとて、毒をこのむべからず』と、あそばされそうろうは、かの邪執をやめんがためなり」。

 (私訳 まだ親鸞聖人が生きておられたころ、聖人の悪人正機という本願理解を自己流に解釈し、すすんで悪をおこなうことこそが、本願にかなう往生への早道であると思い込んだ人がいた。実際、そのようにふるまったのだろう、芳しからぬ評判が様々に聞こえてきた。そうしたあやまった思い込みを制止しようとして、聖人は『薬があるからといって、わざわざ毒を飲み、病気になるようなことはしてはならない』とお手紙に記したのであった。)

 薬とは悪人正機という本願であり、毒とはすすんで悪をつくること、悪人になることだ。

 造悪というのは厄介な問題である。なぜなら、ほかならぬ親鸞の本願理解が悪人正機だからである。悪人こそ往生にふさわしい人であると説くところに、「ではすすんで悪をおこなうことはもっと往生の正因になるはずだ」と考える人たちが出現するのは押しとどめがたいのではないだろうか。むろん、あやまった思い込みには違いない。しかし、それはあまりに強烈な親鸞の本願理解(=薬)が否応なく引き寄せてしまう毒なのではないか。そしてそれはまた、薬への強い期待の現れなのではないか。

 唯円はそう考えた、と筆者は思う。それゆえに造悪を、親鸞思想に反するものとして、あっさりと切り捨てられなかった。しかも目の前では、念仏往生を願っているかのようにふるまいながら、本願の力をあなどる人たちが幅を利かせているのだ。

 ところで、ここに唯円のとりあげた親鸞の手紙とは、京に帰ってすでに二十年、変わらず密な結びつきを維持している関東の門徒たちに宛てたものである(親鸞聖人御消息集―)。読み直してみて、これまで見過ごしていた大切な一点に気がついた。手紙には「くすりあればとて、毒をこのむべからず」という文言はなく、そこに見たのは、以下であったのだ。

 「くすりあり毒をこのめ、とそうろうらんことは、あるべくもそうらわずとぞおぼえそうろう」

 (私訳 煩悩は毒であり、煩悩具足の凡夫は毒が体中に回った病人です。本願はそのような病人を救うための薬なのです。その薬を飲みはじめ、体の毒が薄らいできた人に、またしても煩悩心を掻き立てろなどと説くことは、ようやく薬が効き始めたところにふたたび毒をすすめるようなもの、そんなでたらめな本願理解はあろうはずがないのです)。

 親鸞は、腹立たし気な面持ちで、断固、造悪を退けているのである。本願ぼこりをめぐる二人の見方の違いについて、さらに考えてみたい。

【第18おわり】南御堂新聞20199月号掲載 / 2021/11/8オンライン公開