第1

極小の悪意の形とは

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 たとえば散歩中、偶然、道路わきの家の屋根瓦が崩れ、小さな破片が頭に降ってきた。この場合。体は痛かったけれども、心は痛くなかった。

 小石が飛んできた。当らなかった。けれど、自分を狙って投げられたとしか考えられないものだった。体は傷つかなかった。しかし、心が傷ついた。小石には、投げた人の悪意がこめられていたからだ。

 このように、心を傷つける悪意のこもった行為や言葉を指して、ルソーは悪という言葉を当てている。(『孤独な散歩者の夢想』)

 『歎異抄』における親鸞の悪の捉え方は、ルソーと視点が逆だ。ルソーは自分が心を傷つけられる側にいる。親鸞は傷つける側にいる。

 親鸞にとっての悪は、自分が誰かを傷つけること、「害する」ことである。身・口・意 三業の総体としての「害する」を、「つみ」(罪)という言葉で親鸞は把握する。そして罪の根本因を宿業という概念でおさえたのであった。「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」(第十三章)。

 筆者はこれまで、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりも」という個所に、まるで関心を払ってこなかった。それは比喩でしかなかった。単に「あらゆる」という意味を告げるものでしかなかったのだ。それゆえに、宿業という概念の底知れない包括性を強調する役割を与えられてもいる、そう理解していたのである。

 最近こうした読み方を崩したいと、とみに考えるようになった。「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみ」に、少しでもいい、具体性を与えてみたいと思いたったのだ。それには、「つみ」と宿業を切り離さなければならない。「つみ」を「害する」という位置に置くことである。ルソーのいう、人の心を傷つける悪意として扱う必要があるだろう。

 そして「卯毛羊毛のさきにいるちりばかり」の悪意を、目に見えないし、人にもそれと感じられないくらい極小の悪意という言葉に置き替えてみよう。すると、問いが生まれる。極小の悪意はいったいどんな形をとって現れるのであろうか。

 長塚節の長編小説『土』(一九一二年刊)は、親鸞が二十年を過した関東の一寒村が舞台である。この作品は、極貧が、人の心をいかに蝕むかを教えてくれる。

 主人公は、小作人の勘次だ。働き者の妻を早くに失った勘次は、男手一つで、娘と息子、自分の三人の暮らしを維持しなくてはならない。勘次は、異常なくらい懸命に働く。けれども、一向に蓄えは増えていかない。そのため、努力はいきおい、蓄えたものを減らすまいとすることに向けられることとなる。勘次は、暮らしを守ろうとするあまり、極度に物惜しみする人間になっていく。

 勘次の心を常にそばだてているのは、同じような境遇にある百姓に対する猜疑と嫉妬である。彼らの誰かに幸運がないことに安堵し、少しでも良い事があると嫉妬し、自分が得るはずの利益を、誰かにもっていかれやしないかと猜疑する。そして、蓄えが増えた自分をひた隠しにする。これらは、顔にも出さなければ、目つき、態度にも表れない。自分でも意識しているかさえ明らかではない。無表情が作られていく。無表情は、その人の生き方、暮らし、性格そのものとなったのだ。

 確かに、こうした無表情は、人の心を傷つけたり、害したりすることはないだろう。けれども、人を近づきにくくし、ひいては人を拒むことにつながるのではないだろうか。人を悲しませ、失望させるのではないだろうか。悪意ではないが、前悪意。原悪意。

 ここまで述べてきて、はっと気がついた。勘次の無表情は、筆者が内面深くに潜ませている防衛姿勢そのものであったということに。関東にいた親鸞が、貧しさがもたらす、こうした人間の罪性を垣間見なかったとは、とうてい思えないのである。

【第15おわり】南御堂新聞20196月号掲載 / 2021/10/28オンライン公開