第1

業縁にせきたてられて

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 「さるべき業縁のもよおせば(もよおさば)、いかなるふるまいもすべしとこそ、聖人はおほせそうらいしに」(『歎異抄』第十三章)

 この部分の業縁(=宿業)を「そうなるほかない必然性」と訳してみた。もよおすには辞書に、きざす、うながす、せきたてるなどの意味が見出せたが、ここでは「せきたてる」を採った。かくして、以下のような訳ができあがった。「ひとたび、そうなるほかない必然性にせきたてられると、もう何をもってしてもそのふるまいを止めることはできない、そのように親鸞聖人はお話しされていた」。

 ここから具体的にイメージしたいのは、制止不能な必然性=業縁にせきたてられて罪(つみ)へとひた走る人間の姿である。

 ドストエフスキー『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、父譲りの古い銀時計と妹からもらった金の指輪を質草に、アリョーナ婆さんに金を借りたのだが、その金を借りた婆さんに、彼はどうにもおさえきれない嫌悪を感じたのだった。嫌悪をおさえきれないということは、溢れるほどの殺意にせきたてられた、ということだ。

 ラスコーリニコフはすぐさま、このような衝動を、社会正義に基づく、正当な理屈へと置き換えるのである、こんなふうに。

 ここに巨額の金を無駄に溜め込んでいる老婆がいる。彼女は、意地悪で、生きていてもなんの価値もない、むしろ万人に有害な存在で、しかも今にも死にそうでさえある。死ねば彼女の金はすべて僧院に寄付されてしまうのである。

 ラスコーリニコフは自問する。一個のささいな犯罪は、数千の善事で償えないものなのか、と。数千の生命が貧困や病気、堕落や腐敗から抜け出せるのである。一つの死が百千の生にかわるのである。まさに、正義ではないか。だとすれば、急ぎ彼女を殺し、金を奪わなければならない。そして奪った金を利用し、全人類への奉仕、共同の事業への奉仕に身をささげるべきである。

 これはしかし、まだ彼の想いでしかない。頭の中で何をこねようと、想念は決行されないかぎり、彼の目指す正義となることはないのである。こうしてラスコーリニコフは、そうなるほかない必然性にせきたてられて、老婆殺しを遂行するのである。――(米川正夫訳から筆者が要約)

 実のところ私は、三年前の、二〇一六年七月二六日、相模原市で大勢の障害者を殺傷した植松聖のことを念頭に置いている。重度の障害者を悪とみなし、抹殺することは全人類を救うことだと主張し、この主張を実行した植松聖とラスコーリニコフを重ね、両者に共通するところを浮かびあがらせたいと考えている。

 ラスコーリニコフが金貸しの老婆を嫌悪したように、植松聖も障害者をどうにもおさえきれないくらいに嫌悪したに違いない。けれども嫌悪感だけでは、どんなに激しくても、相手を殺す理由として薄弱である。それでは己を説得しきれない、だから二人は、動機を正義に求めたのである。その結果、殺したいという個人感情は、人のために資する善事の社会感情に転換され、いっそう強化されたのであった。

 注目したいのは、ラスコーリニコフも植松聖も激しい嫌悪の感情から目を背け、正義を欲したことだ。嫌悪の感情に目を背けなかったらどうであったか。そこには魂の強い力がはたらいていたに相違ない。それが彼らを、私的感情を社会正義にすりかえる自己欺瞞から遠ざけたにちがいない。

 嫌悪の感情から目を背けさせたのは彼らの臆病な魂であった。この魂の弱さが彼らを自己欺瞞へと誘導し、自分を、社会正義を遂行する勇気ある英雄に仕立てようとしたのである。他者への嫌悪、自己欺瞞、善人と続く過程に、臆病な魂が業縁として作用しているのを見る思いがするのである。善導は、己の臆病な魂の自覚を機の深信として要請したのではなかったか。「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫…」。

【第16おわり】南御堂新聞20197月号掲載 / 2021/11/1オンライン公開