第1

意図せず造悪的”な行動に

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 前号で『歎異抄』第十二章において著者唯円が使った三つの「あやまって」の語のうち二つを紹介した。唯円がこの語を用いた狙いは、念仏者に学問の魔力についての注意を促すこと、これであった。

 最初の用例は「あやまって、学問して」であった。念仏者自身か念仏よりも学問にひかれ、それをいつの間にか往生の第一義にしてしまっていること自体に、他力信心の喪失を見ようとして用いたのがこの語であった。

 これから紹介する三つ目の用例は、あやまって学問を選んだことの先に起こるかもしれない、いっそう深刻な「あやまって」である。自らが陥ったのと同じあやまちを、人にもさせようとするのだ。言わば、学問したことがもたらす造悪的な「あやまって」なのである。

 読んでみよう。

 「たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって(あやまて)、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを」。

 (私訳:世の中には、ときおり、本願の何かも知らずに、それでいて本願の主旨にぴったり適合するかたちで、念仏だけを日々熱心に称えている人がいるものだ。そういうよき状態にある人のところにわざわざ、学問風を吹かせに出かけていって、念仏だけじゃだめだ、おれみたいに学問しなければ往生はおぼつかないぞ、学問こそが往生の要だ、などと、親切めかして脅迫する連中がいるのである。仏の教えの根本に反し、阿弥陀仏・釈尊を怨み、二尊に争いを挑もうとする魔のふるまいである。

 念仏を捨て学問をとった、そのように信心を自ら損なっておきながら、その自覚もなく、それどころか、こともあろうに自分が陥ったあやまちを人にもたどらせようとする。もってのほかのことである。親鸞聖人のいましめに背く最たるものである。)

 ここでの「あやまって」には、唯円の憤怒が感じられる。念仏を捨て学問をとる、言うまでもなく、聖道門への後退であり、浄土往生の信心を放棄することである。だが、そのことを咎めだてするつもりはない。信心喪失という出来事は、当人だけに起きたことであり、あくまで本人一人の問題であるからだ。

 けれども、いま目の前にしていることを、本人一人の問題というかたちで処理することは不可能である。学問することが他へ及ぼす災厄が露出しているのである。このことをどう説明したらいいのだろう。

 以下は愚見である。学問し、知識を得ることは、財を蓄えることと同じである。知識が財産と同じ力を持つのである。

 では、念仏はどうか。残念ながら、いくら称えても、学問のようにそこに知識となって積み上がるわけではない。念仏は本願のもの、弥陀のものだからである。一方、知識は財産同様、自分のものとして所有できる。

 知識が財産と同じ力を持つということは、知識が権力となり、学問した者が、学問しない者に対し、権力者のような態度をとる、そのようなことが起こりかねないということなのだ。

 知識でもって、人の信心に介入し、混乱させ、ついには自分にならえと強要する。ずいぶんと暴力的なことではないか。しかも、このことはしばしば、親切心という善意の衣装をつけておこなわれるのである。

 「あやまって」という語の底には、「それと気づかずに」あるいは「それと意識されずに」「知らず知らずに」といったニュアンスが貼りついている。意図せずに信心を欠くようになり、意図せずに人に造悪的な行動に出てしまうということだ。それゆえに唯円は、この語を多用し、学問のはらむ恐るべき落とし穴について、念仏者に細心の注意を促したのだと思う。 

【第14おわり】南御堂新聞20195月号掲載 / 2021/10/25オンライン公開