第1

親鸞慕う念仏者たちの初心

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

  『歎異抄』第十章には、いわゆる中序と呼ばれる部分が接合されている。「念仏には無義をもって(もて)義とす。不可称不可説不可思議のゆえにとおおせそうらいき」と記された箇所、これは親鸞の言葉だ。一呼吸置いて「そもそもかの御在生のむかし」というふうに新たに文章が書き起こされるのだが、ここからは唯円自身の言葉である。接合されていると書いたのは、この部分である。

 二人の言葉は、文体も内容もまるで違うし、連続性もない。読む側の気分としては、その間に一呼吸置きたくなろうというものだ。かつ、唯円の文は、後に続く異議篇と呼びならわされている十八章までの全章句の、序の役割をもなしてもいるのである。なるほど、中序とするにふさわしいと納得する。

 私の関心はその中序の冒頭「そもそもかの御在生のむかし、おなじ(く)こころざしに(を)して、あゆみを遼遠の洛陽にはけまし」という部分に向けられている。ここをどう解釈すべきか迷っているのである。

 これまでいくつもの歎異抄訳を手にとってきた。その多くが「あゆみを遼遠の洛陽にはげまし」を、テキストにない「関東から」ないし「関東より」という一言を補って訳しているのである。一例を引くと「そもそも聖人がご在世のころ、こころざしを等しくして、関東よりはるばる京都にのぼり」(石田瑞麿氏訳)。

 この箇所が、第二章の「おのおの(の)十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきがんがためなり」という親鸞の言葉とほぼ同じ方向性をもった内容であることを知っている。おのおのとは、関東の門徒たちである。十余か国のさかいをこえて、に相当するのが「歩みを遼遠の洛陽にはげまし」ということになる。関東から京までの遠いみちのりのたとえである。

 六十を超えて住みなれた関東の地を離れ、帰洛した親鸞に、当初から一貫してねんごろな配慮とともに、信心をめぐって熱い想いを寄せ続けたのは関東の門徒以外になかった。京での親鸞のうら淋しい暮らしを、物心両面で支えようとしたのも関東の面々であった。親鸞の周囲に最初に集ってきたのも、少数の関東の門徒たちであり、彼らを中心に、しだいに人が集り出した。右の訳し方の背後に、このような事情が浮かび上がってくる。

 しかし、唯円は本文で関東という言葉を使っていない。別の訳す道があるのではないかという思いが依然として消えないのである。

 そこで愚案である。それは「あゆみを遼遠の洛陽にはけまし」を、唯円が用いた修辞上の一種の常套句、和歌などに多用される縁語の類とみなそうとするのである。遼遠の洛陽という使い方にとくにそれを感じてしまうのだ。縁語に当たる語は、これに続く「信をひとつにして心を当来の報土にかけ」における「当来(未来)の報土(浄土)」である。信心上のという前提を設ければ「遼遠の」は「当来の」と、「洛陽」は「報土」とそれぞれ縁語的に対応しているとみなせるだろう。

 当時の京を中国唐の大都市洛陽と重ねたのは、知識人唯円の教養の高さであり、また実際に十余か国の境をこえて京にたどりついた経験からの唯円の実感でもあった。

 鄙びた遠隔の地から都に上るのはいつの時代でも、その遠さに目の眩むような感情にとらえられるものだ。それゆえ、大志を抱いて一歩を踏み出したものの、途中で気弱になり、心挫けて戻りたくなる。往生を願う信心においても同じことが言えるだろう。だとすると、遼遠の洛陽は、心がおぼえる京までの遠さを表すと同時に、向うべき未来の浄土への道のはるけきを表す比喩でもあったのではないか。

 親鸞を慕って京に集った念仏者たちの初心を、このようなものと想像してみたい気がするのである。 

【第12おわり】南御堂新聞20193月号掲載 / 2021/10/18オンライン公開