第4

「不退転の愛を感じ取り

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 親鸞の死は、弘長二年(一二六二) 十一月二十八日だった。臨終に娘の覚信尼と息子の益方が立ち会った。覚信尼はそのことを、越後に住む母恵信尼に手紙で知らせ、併せて、父の死に何の瑞祥も現れなかったこと、それをもって周囲の声が父の浄土往生を疑っているらしいことも記した。

 恵信は返事を書いた。あなたのお父様の往生は疑いないこと、それどころか、お父様は観音の化身である。母はそのことを夢で知っていたのです、と。そして終の場に我が子が二人もいたということは、親子の契りとは言えなかなかあり得ないことであり、母として深く喜ばしいとも記した(第三通―「恵信尼消息」)。

 その一方で、恵信自身の思いは一言も記されていない。しかし、推測はつく。夫は念仏の同行者であり、いつでもそばにいる。しかも観音菩薩、死別に語るべきどれほどの意味があろうか、というものだ。ここには「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」が呼応していよう(『歎異抄』第五章)。

 流刑地及びその後の関東にての同居期間と、親鸞が帰洛した後の別居期問は、ほぼ同じで27、8年。二人の婚姻が基本的に、夫婦別居を旨とする母系時代のあり方を踏んでいたと考えれば、晩年の別居生活を必ずしも不審に思うことはできない。恵信は六十過ぎて住み慣れた関東の地を去る夫に伴うことなく、この間生まれた子どもたちの育成を自分の役割として、いくらかの所領のある越後に子連れで向かったのだった。子どもは母方が育てるという母系原理にしたがった結果であった、そう考えることも出来るのである。

 恵信は娘への返信に、主に次の点を記したのだった。

・比叡山の堂僧であったあなたのお父様は、後世をめぐり懊悩し、観音の判断を仰ぐべく六角堂に百日間こもったこと。その九十五日目に観音は示現した。その折に賜ったお言葉を、私にもすぐさま教えてくれた。それも書きつけておいたので読むように(観音の言葉の部分は残っていない)。

・観音の示現を得て六角堂を飛び出したお父様は、法然上人と出会い、この度も百日間日参した。そして善人悪人かかわりなくすべての人の後世を平等に救いとるという上人の専修念仏の思想に、絶対の信を置くようになったこと。

・その時にお父様が示された信心の姿勢は比類なく素晴らしいものであったこと。

 「上人の、わたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり」。

(私釈:お父様が、法然上人のいらっしゃるところには、どこまでもついていくと決意表明すると、悪道に堕ちたらどうするのだ、と心配顔に制止する人がいました。そのとき、こうおっしゃったのです。そうかも知れない。しかし、たとえ上人についていかなくても、私のようなものは、世々生々、出離の縁のないまま闇の中を永劫にさまよい続けるに決まっているのです。なので、ついて行くことを選んだのです、と。)

 ここは善導の二種深信における凡夫の自覚、『歎異抄』では第二条の「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」が木霊し合っている。

 恵信が自分も親鸞にどこまでもついていこうと決意したのは、眼前で法然への絶対信の動機を語る夫の言葉に、同時に自分への不退転の愛を感じ取ったからであった。

【第45おわり】南御堂新聞20221月号掲載 / 2022/3/7オンライン公開