第1

情愛の力を奪う障壁

不信と信を揺れる―親鸞で読む人間模様   芹沢俊介

 いま筆者は、『歎異抄』第四章の書き出しの部分に関し、親鸞と唯円に、素朴な問いをぶつけてみたい気持ちになっている。

 親鸞は「聖道の慈悲」について、人間がいのちあるものに示す基本的情愛であると述べ、この情愛を大切なものとしながら、同時に限界があることを指摘したのだった。「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」。

 発したい問いは、こうだ。「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という、人間の情愛は、どんな困難に直面したとき、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」、すなわち無力な自分をそこに見出すに至るのか。

 人間の情愛の力を奪う、その越えがたい障壁について、親鸞は何も告げていない。

 その先にある文でも、「ご承知のとおり」、と言っているだけだ。「今生に、いかに、いとおし不便(ふびん)とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」(目の前で起きていることがどれほどむごく、つらい事態だと思っても、手をこまねくしかないことだってあるのは、ご承知のとおりだ。であるなら、人間の情愛がいかに強くとも、そこには限界があると言うほかないだろう=私訳 以下同)。

 もう一度、問おう。目の前で起きている、人間の情愛を無力にしてしまう事態とは親鸞は答えていない。だが、ヒントはある。

 「はぐくむ」である。この語は、古形が「はくくむ」すなわち「羽含む」であり、親鳥が雛を羽で包んで抱きかかえて守り、育てるという意味があることである。だとすれば、この部分は、目の前にあるいのちを愛で、親鳥が雛を自分の羽で包んでいとおしむように、守り、育てるという、映像のともなった読み方として咀嚼できる。

 かくして「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」は、次のように解釈可能だ。

 「そのように大事にいつくしんで育ててきた子どもに、突然、生死無常の風が吹きつける。たとえば、病魔が襲いかかるのだ。親である人は、けんめいにいのちを取りとめようとするであろう。だが、もはや情愛では無常の風を払い退けることは絶望的である」。

 それができるのは、弥陀の浄土の慈悲という力だけだと親鸞は説く。

 「生死無常の風」、筆者の見つけた答えだ。無常という言葉を、親鸞はほとんど使わない。その貴重な例を手紙に見つけることができるのである。

 「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」(『末燈鈔』六 乗信坊宛書簡)

 関東に住まう弟子乗信は、眼前に繰り広げられる死の跳梁に怯え、自分も無残な死に方をするのかもしれないと、親鸞にその恐怖感を訴えてきたのだろう。親鸞は返事を書いた。八十八歳のときであった。

 「去年、今年と沢山の人が亡くなりました。悲しいことです。しかし人間の生き死にはいつとは決めがたいし、どのように死ぬのかも分からないものです。生死無常はかねて釈迦如来が懇切にお説きになっているとおりなのです。あなたも念仏者なら、死を前に動転したりしてはなりません」。

 そして、今の自分の信心のあり方を書き伝えたのである。「まずは、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり」(私自身は日ごろから、こう考えています。どこでいつどういう死に方をしようが、信心が定まっているなら、誓願へのその疑いのなさにおいて、すでに往生は約束されているのである。どうして無常の風に怯えることがあろうか)。

 手紙と第四章、生死無常とそれを超える弥陀の願力の対比、この点で二つはよく似ている、そう思えてならないのである。

【第17おわり】南御堂新聞20198月号掲載 / 2021/11/4オンライン公開