仏教こばなし
釈徹宗先生/2016年4月(646号)〜2018年3月(669号)連載
難波別院・親鸞聖人前の鶴亀
第1回 お説教と語り芸能
「芸能は宗教儀式から」
今回から「真宗と落語」をテーマとしたお話をつづっていきます。どうぞ気楽にお読みください。
日本の伝統的な語り芸能は、いずれも仏教のお説教と深い関係にあります。平曲・謡曲・浄瑠璃・貝祭文・説教節・落語・講談・浪曲など、どれを取り上げても仏教の影響を読み取ることができます。
そもそも宗教と芸能は近接した領域なのです。これは世界のどの文化圏においても同様の事情です。芸能という用語は、「何かのマネをする技」といった意味をもちます。動物のマネをしたり、宗教者のマネをしたり、そういったパフォーマンスは芸能の原型です。また、祭祀者の宗教儀式における歌や踊りなどは、そのまま芸能としての性格ももっていました。ですから世界の多くの芸能は宗教儀式から発生しています。
そんなわけで、宗教と芸能の関係は私自身の研究テーマのひとつです。中でも落語は、伝統的な日本仏教の説教形態を色濃く残した特別な語り芸能であると言えます。和服を着て、たった一人で高座に正座して語る形態の芸能は、世界で落語だけだそうです。なぜ日本にだけこのようなめずらしい話芸が発達したのか。それは古いお説教の形態を引き継いでいるからだと考えられています。もともと高座というのはお説教する場所を指しました。噺家が扇子を持っているのも、僧侶が持つ中啓などからきたのだろうと言われています。このコラムで、「宗教と芸能」や「仏教と落語」、そして「真宗と芸能」や「船場と落語」といった話題を展開しようと思います。なにしろ上方落語の多くは船場を舞台としていますからね。ご存知のように、船場は南北の両御堂を軸としてきた地域です。このコラムが「南御堂」に掲載されるのも、深い縁を感じます。
まず今回は、「浮世根問い」という噺をご紹介しましょう。“根問い”とは、繰り返ししつこく問うという意味です。つぎのようなストーリーです。
【物知りだと自慢するご隠居に、次から次へとつまらない質問をする男。この男はご隠居に物事のいわれなどを根掘り葉掘り聞く。ご隠居はその都度かなり苦しい珍説で切り抜けていく。男「死んだらどこへ行くのか?」。ご隠居「西だ」。男「九州あたり?」。ご隠居「もっと西」。男「カンボジア?」。ご隠居「もっと西だ」。いくら答えても、男は納得せずに次々と質問を繰り返す……】
最後は答えに窮して、「死んだらみんなここへ行くんだ」とお仏壇の扉を開けるご隠居。男は、「そうすると、さっき話に出た千年も万年も生きる鶴や亀もそこへ?」と聞きます。そしてご隠居が「そうじゃ、この通り、ロウソク立てになっておる」と言って、サゲとなります。みなさん、このサゲ、わかりますか?
ご隠居のお家は真宗大谷派だったのですね。
【第1回おわり】南御堂新聞2016年4月号掲載 / 2020/08/13オンライン公開
第2回 説話と落語
「仏教説話が落語のネタへ」
もともと宗教と芸能とは密接な関係にあります。ほとんどの芸能は宗教儀礼を土壌として生まれています。また宗教と芸能が高度に分化してからも、双方は互いに刺激し合い、影響を与え合ってきました。だから、「宗教がもつ芸能性について考える」「芸能の中に潜む宗教性を読み取る」ことは、とても大事だと思うのです。
たとえば、私が勤務している相愛大学には音楽学部があります。音楽学部の学生たちは基本的にクラシック音楽を学んでいます。そんな学生に対して、私はたまに「キミたち、少しはキリスト教について学ばないと、クラシック音楽の奥深いところまで進めないんじゃないの?」などと、嫌味を言います。宗教を通して人間や文化を研究している者としては、キリスト教への知見なしに欧米文化を理解できるとは思えないのです。
同様に、仏教を知らないと日本の芸能はわからないだろうなあという気もします。もちろん、「仏教がわからないと落語はわからん」とまでは言いませんが…。仏教を知れば落語が何倍も楽しめることは確かです。また落語を通して仏教に近づくことも起こるはずです。
次に挙げているのは、『阿育王経』に出てくる「樹の因縁」という話です。
【南インドに一人の出家者がいた。彼はなんとか悟りを得たいと考え、ある立派な尊者に教えを求めた。尊者は、「私の言う通りするなら、教えを説こう」と言う。出家者は「はい従います」と応えた。「では、この大樹に登れ」。出家者は高い樹の上に登った。すると、尊者は「右足を離せ」と声をかける。出家者は右足を離す。次は「左足を離せ」と言う。出家者は左足を離す。次に右手を離せと言う。右手を離す。そしてついに、尊者は「左手も離せ」と言う。出家者は悩んだ挙句、思い切って左手を離すのだが…】
この話には、宗教における「信」の内実が巧みに表現されています。信心や信仰というものは、この出家者のように、どこかで我が心身を投げ出さねばならない場面に直面します。「樹の因縁」のような説話は、実際に当時から説法などで使われた素材なのでしょう。でも、落語好きの人ならある噺を連想するに違いありません。そうです、「始末の極意」というネタにそっくりですね。「始末の極意」とは、次のような噺です。
【ケチの達人である男が、友人から「ケチの極意」を教えてくれと頼まれる。すると達人は、友人を高い樹に登らせる。友人は両手で樹の枝にぶらさがる。達人は「左手を離せ」と叫ぶ。友人は言われる通りに左手を離す。次に達人は「右手の小指を離せ」と言う。友人は、小指、薬指、中指と順々に離すように言われ、その通りにする。友人は人差し指と親指で枝につかまっている状態になる。ついに達人は「人差し指を離せ」と言い放つ…】
「始末の極意」の原話は、「樹の因縁」であると思われます。この他にも、仏教説話が落語のネタへと転用されている例はけっこうあります。
【第2回おわり】南御堂新聞2016年5月号掲載 / 2020/08/14オンライン公開
第3回 落語の祖
「僧侶のお説教から落語が」
「落語の祖」と讃えられている僧侶がいます。浄土宗西山派の日快(1554年~1642年)です。日快は安楽庵策伝という名で知られていますので、本稿では策伝と記述します。策伝は安居院流の流れに位置する説教者です。安居院流の説教は、浄土宗や真宗に大きな影響を与えました。このことについては、次回お話しましょう。
江戸時代後期の作家・山東京伝はその著『近世奇跡考』において、「安楽庵策伝は“おとしばなし”の達人であった」と書いています。また、江戸時代の風俗百科事典である『嬉遊笑覧』には「策伝は世にも稀な“はなし上手”である」とあります。策伝は“おとしばなし”(最後にオチをつけた小咄)を使ったお説教が得意だったのですね。そして千話を超える小咄を集めて『醒酔笑』全八巻を著しました。このような事績をもって、「落語の祖」と評されているのです。
実際、『醒睡笑』の中には、今日も語られている落語の演目の原型が書かれています。たとえば次の小咄を読んでみましょう。読みやすいように現代語に訳しています。
【手紙の上書きに平林と書いてある。(しかし、字が読めないので)通りがかりの出家者に読み方を尋ねてみると……。その出家者は『ヒョウリンか。ヘイリンか。いや、タイラバヤシかヒラリンか。いやいや、一八十(いちはちじゅう)に木(ぼく)木(ぼく)か。そうでなければヒョウバヤシか』と言った。これほどいろんな読み方を試みても、正解であるヒラバヤシと読むことはできなかったのである】(第六巻)
不勉強な出家者を揶揄するような筆致となっています。これは策伝が最もお得意とするところです。『醒酔笑』には、僧侶の失敗談や宗派の特徴を誇張した話が数多く掲載されています。こういう小咄をお寺の本堂でやるのですから、さぞや大ウケのお説教だったことでしょう。
さてこの小咄は、今日も古典落語のネタとなっている「平林」(東京の落語では「ヒラバヤシ」、上方では「タイラバヤシ」と読みます)の原話です。現在の落語では、丁稚が主人に預かった手紙の宛名が読めないので教えてもらおうとする、といった展開になっています。尋ねる人尋ねる人どの人も読み方が違うので、困った丁稚は「全部の読み方を大声で言って歩けば、きっとどれかが正しくて、宛名の人が聞きつけてくれるだろう」と考え、「タイラバヤシかヒラリンか、イチハチジュウのモークモク、一ツと八ツでトッキッキッ」と節をつけてふれ歩きます。このフレーズがなんともいえず耳に残ってしまいますね。私も子どもの頃、この咄を聞いて、一度で覚えました。策伝の創作が姿を変えながら、四百年近くの時を経て今につながっているのです。
僧侶のお説教で使われた“おとしばなし”が飛び出して落語が生まれた、という面があるのですね。
【第3回おわり】南御堂新聞2016年6月号掲載 / 2020/08/15オンライン公開
第4回 安居院流の唱導
「表現や心構えに力を」
東アジアの仏教は法要を重視するところに大きな特徴があります。そして正式の法要は、「経典を読誦したり、表白を拝読したりするパート」と、「仏法を説き聞かせるパート」の二つがそろわねばならないと考えられてきました。前者は梵唄や声明と呼ばれる仏教音楽に基づいた読誦が行われ、後者では仏教の教義や信心が語られたのです。今日でも声明のエキスパートとか、説法の達人といった僧侶はあちこちで活躍していますね。日本の法要における「声明」と「説法」の二大構成要素、さらには法要終了後の「娯楽」要素、これらすべてが日本の音楽や芸能の源流となります。
法要の柱のひとつである説法が、日本における話芸の母体であることはこれまで述べてきました。説法には、説経・説教・法談・談義・講義などさまざまな呼称があるのですが、唱導とも言います。表現方法に工夫をこらした説法を唱導と呼ぶことが多かったようです。この唱導を大きく発展させたグループに安居院流があります。安居院流を確立したのは、天台宗の僧侶・澄憲と、息子の聖覚です。二人とも天才的に唱導が上手だったようです。ご存知のように、聖覚法印は法然門下へと身を投じた人であり、親鸞聖人の兄弟子でもあります。親鸞聖人は、聖覚法印をとても尊敬していました。聖覚の著作『唯心鈔』を読むようにと縁者に勧めています。この書を注釈した『唯心鈔文意』も書いています。
澄憲・聖覚親子の安居院流の説法は表現や心構えに力を注ぎ、高度に練り上げられていきました。聖覚法印の弟子である信承が撰述した『法則集』(安居院流唱導の規範書)によれば、入堂・着座から退出までの作法、発声や抑揚の方法、レトリックに至るまで詳細な知見が述べられています。たとえば、「説法の本意は、衆生を度するためにある。説法者は慈悲の心で語るべきであり、自分の名利によって間違った教えを説いてはならない」といった諫言もあり、「説法とはすべて三段になっている。表白・正釈・施主の三段である」という説教の構成法もあり、「声は弱からず強からず。響くように声を張る」などにも言及されているのです。
安居院流の説法をさらに大きく展開した人物が証空上人であるとされています。西山浄土宗の派祖です。この証空上人の法統から「当麻曼荼羅」の「絵解き」(絵を使った説法)が生まれたと言われています。また、安居院流の系譜から、落語の祖・策伝上人が登場するのです。
ちなみに、平安時代の末期には唱導二派と呼ばれる流れが生まれています。ひとつは安居院流であり、もうひとつは三井寺派です。三井寺派はやがて安居院流に吸収されるような形で消えてしまいますが、一時期は全国を放浪する半僧半俗の語り部たちの拠点となっていました。
【第4回おわり】南御堂新聞2016年7月号掲載 / 2020/08/16オンライン公開
第5回 修学僧と説教僧
「成熟した文化と豊かな宗教性」
前回は安居院流の説教についてお話しました。表現に工夫を凝らしたお説教が、日本の語り芸能の母体となっていったわけです。
『枕草子』には、次のような記述があります。
【説教の講師は、顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは、罪や得らむとおぼゆ。】
(説教の講師は、顔の美しい人がいいです。講師の顔をじっと見つめていればこそ、その人の説くことの尊さも感じられますから。さもないと、よそ見をしてしまうので、たちまち説教も聞き忘れますから。にくらしい顔の説教師を見ていると、おそらく罪を犯しているのだろうと感じてしまいます。)
この人はイケメンじゃないとお説教を聞く気になれなかったのですね。軽妙な筆致から、当時の法座の雰囲気をうかがうことができます。さて、ここに出てくる「講師(こうじ)」とは、仏前において高座へと上がり仏教の教えや経論釈を説く僧侶のことです。講師の多くは修学僧です。修学僧は経論を学び研究して、講義をします。これに対して、もっと民衆にわかりやすくおもしろおかしく、笑わせたり、泣かせたりする説教僧が登場します。説教僧は、語りを工夫し、時には節を付け、時には演技して、時には歌いました。今日では、真宗の説教技法である「節談説教」がよく知られていますが、節をつけて仏法を語るスタイルは、説法の最初期からあったのです。
このような説教僧の様子を、虎関師錬は次のように批判しています。
【謟譎(とうけつ)交々(こもごも)生(な)って変態百(もも)出(い)づ。身首を揺(うご)かし音韻を婉(ま)げ、言、偶儷(ぐうれい)を貴び、理、哀讃(あいさん)を主とす。】
(説教僧は、庶民にへつらい、いつわりを述べ、さまざまと形態を変える。身体を揺すり、節や抑揚を使い、かざりたてた言葉を重視し、感傷的な話を軸としている。)
学僧たちから見れば、説教僧は「みっともない」「なんと下品な」「大衆におもねっている」と見えたのでしょう。なんだあの芸能まがいの説教は、けしからん!といった具合です。
しかし、実際に庶民の仏教的感性を育んでいったのは、説教僧の大衆的な語りだったと言えるでしょう。そして、この説教僧の語りが次第に高度なものとなっていき、ついには安居院流の説教へと行き着くのです。
私は宗教がもつ芸能性や、芸能がもつ宗教性に注目しています。とても重要なことだと考えているからです。この二つが両輪のように活動している状態は、成熟した文化と、豊かな宗教性がなければ成り立ちません。
ぜひみなさんも、宗教と芸能がからみ合って生み出す豊かな世界に注目してください。
【第5回おわり】南御堂新聞2016年8月号掲載 / 2020/08/17オンライン公開
第6回 僧形の芸能者
「今日の落語の形態に」
落語の祖と呼ばれる浄土宗・策伝上人。この人と同時期に活躍した真宗僧侶に浅井了意がいます。浅井了意もお説教の名手だったようです。そして仮名草子の作家でもありました。「牡丹灯籠」の翻案など、怪談もののジャンルを確立した功績は大きいといえるでしょう。
近世になると庶民の文化が発達します。ストーリーテラーとしての説教者たちが日本各地で活躍し、同時に語り芸能も成熟していくこととなります。仏事祭礼など人の集まる場所では、大道や野天で語る芸能者たちが続々と登場。ついには、京に初のプロ噺家・露の五郎兵衛が登場します。元は日蓮宗の僧侶でした。
露の五郎兵衛は晩年に入道(僧形で世俗の生活を送る者)の名である露休を名乗っています。また、この人は僧形(そうぎょう)で語っていたようです。『軽口露がはなし』という咄本を著しており、それを見ると策伝上人の『醒睡笑』に影響を受けていたことがわかります。また遺稿集として『軽口あられ酒』『露休置土産』なども残っています。『露休置土産』からひとつ読んでみましょう。
【ある人、頭巾(ずきん)を買ひに行き、「この頭巾、何程」といふ。亭主聞き、「六匁(もんめ)五分(ぶ)でござる」「それは高い。五匁に買はふ」「それなら、負けて進ぜう」。かの買手(かいて)、頭巾を取りて、「いや、これは付けぞこないじゃ。まづをきませふ」。亭主、腹を立て、「ここな人は、あきなひ見世(みせ)で小便(しょうべん)しやるか。ぜひとも売らねばをかぬ」。買手、迷惑して、「しからば、頭巾はをいて、この股引(ももひき)を買いませふ。これ何程」「この股引は六百でござる」「えいえい、三百に負けさしやれ」。亭主、はじめにこりて、「いかにも負けてやりませふが、又小便する事はならぬぞ」。買手聞き、「いやいや、小便のしられぬ股引ならば、買ふ事はならぬならぬ」】(巻二)
(ある人が頭巾を買いに行った。「この頭巾はいくら?」と聞くと、店の亭主は「六匁で五分です」。「それは高い。五匁だけ買おう」。「それならまけましょう」と決まった。ところが買い手は頭巾を手に取って、「いやこれはよくない品物だ。買うのはやめておこう」と言い出す。亭主は腹を立てて、「お前は商売している店で小便(ひやかしで帰ること)をするのか。どうしても買ってもらうぞ」と言う。買い手は困って、「それなら頭巾はやめて、この股引を買います。これはいくら?」。「この股引は六百です」。「いやいや、三百にまけなさい」。さっきのことがあるので亭主は、「まけろというならまけますが、また小便することはなりませんよ」。これを聞いた買い手は、「えっ、小便ができない股引なら、買うわけにはいかない」)
今もこの小咄は落語「道具屋」の中で語られています。二人の登場人物のやりとりを演じ分けて語れば、今日の落語の形態になるわけです。
【第6回おわり】南御堂新聞2016年9月号掲載 / 2020/08/18オンライン公開
第7回 ネタにされた真宗門徒
「大阪落語の始祖・米沢彦八」
露の五郎兵衛に続き、大坂では米沢彦八が登場します。彦八は、生國玉神社、四天王寺、道頓堀などを拠点として辻噺を語りました。露の五郎兵衛とは三~四十歳の年齢差があったようです。彦八は「仕方物真似」をやったとされています。仕方とは、役者のモノマネなどをすることです。また、大黒頭巾、立て烏帽子、編笠、湯呑茶碗などを小道具に使っていました。トンチ話として知られる「彦一ばなし」も、彦八がモデルと言われています。
彦八の著作だとされる『軽口御前男』を見ると、今日の落語ネタ「有馬小便」「寿限無」「貧乏神」「味噌蔵」「景清」などの祖形を読み取ることができます。
『軽口御前男』から、東西本願寺に関するネタをひとつご紹介しましょう。この小噺には「石より堅い門徒宗」というタイトルがついています。
【東本願寺の門跡様へ、お剃刀いただくとて、さる在所のお婆、始末で仕立てた継ぎ継ぎの布子着て、御対面所へあがれば、門跡様も御出あり。継ぎ継ぎにむつとなされ、「これ着せよ」とて、お召しのお白小袖着かへさせ、お剃刀あて給ふ。婆帰りて、この由をいひければ、地下(じげ)中寄合ひ、婆にみあかしやりて、かの小袖をほどき、少しづつもらひ、あやからんといふ。隣在所の者望む。「何にめさる」「お珠数袋のお表にいたします」といへば、婆、腹を立て、「そなたは、お珠数袋のお表にすると言はるるは、帰参じやさかいで、いよいよならぬ」といふた】(「巻之四」)
(東本願寺の門跡へ「お剃刀」を受けにいくことになったある田舎のおばあさん。これまで始末してきて作ったつぎはぎの着物を着て、門跡との対面所に上がった。そこへ門跡が登場。つぎはぎの着物にむっとして、「これに着換えなさい」とお召しの白い小袖に着換えさせて、お剃刀の儀式を行った。おばあさんが帰宅した後、この話を近隣にしたところ、皆が集まってきて、おばあさんを仏さま扱いしてお灯明をあげて、「その小袖をほどいて、少しずつもらって、あやかりたい」と言い出した。おばあさんが「そんなものを何にするのか?」と尋ねると、「お数珠を入れる袋の表にします」と答える。おばあさんは腹を立てて、「あなたはお数珠袋の表にするというが、それでは西本願寺へ帰ることになるみたいだから、絶対にだめだ」と言った)
サゲがわかりにくいので、説明します。当時、西本願寺を表方、東本願寺は裏方と通称していたようです。東本願寺は西本願寺から離脱した系統だということで、「表にするというのは、西本願寺に帰参するみたいだからだめだ」と言ったわけです。つまり、「真宗門徒の一徹さ」を笑いにしているわけです。
米沢彦八は大阪落語の始祖とされています。毎年九月、生國魂神社の境内において「彦八まつり」(上方落語協会主催)が開催されていることをご存知の人も多いでしょう。
【第7回おわり】南御堂新聞2016年10月号掲載 / 2020/08/19オンライン公開
第8回 長い名前~その①~
「子どもの名前に仏教用語」
前回に続き、もうひとつ『軽口御前男』(米沢彦八)から小噺をご紹介しましょう。
【さる所に、子二人持ちたるありけり。一人は継子(ままこ)なりければ、憎さのあまり、寺へ行きて長老様を頼み、子供の名を付けかへてもらふ。「兄は随分短き名、弟は秘蔵子(ひぞうご)でござります。なるほど長き名を」とこのみければ、長老様、「合点じゃ」とて、兄を如是我聞(にょぜがもん)、弟をば阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と付給ふ。ある時、如是我聞、川へ行て流れければ、近所の者出でて、「やれ、如是が流るるは」と、やがて引上げ、あやうき命助かりける。その後、また弟、水遊びして流れければ、母親、「悲しや、あたりに人はないか。阿耨多羅三藐三菩提が流れます」といふ間に、行衛(ゆくえ)なかりける。母親、ぬからぬ顔で、「三百捨てたら、助かろものを」と泣かれた】(「欲からしづむ淵」巻之二)
(あるところに、二人の息子をもつ母がいた。二人のうち兄は継子で、この子を憎く思っていた。寺の長老に頼んで子どもの名前をつけてもらうのに、「兄は短い名前でけっこうです。弟は大切な子ですので、できるだけ長い名前をお願いします」と頼んだ。長老は「わかった」と、兄に如是我聞、弟に阿耨多羅三藐三菩提とつけた。
ある時、兄の如是我聞が川に流された。近所の者が「えらいことだ、如是我聞が流されているぞ~」と声をあげ、引き上げられて命が助かった。その後、今度は弟の方が水遊びをしていて、川に流された。母は「大変なことだ、あたりに人はいませんか。阿耨多羅三藐三菩提が流されています~」と言っている間に、行方知れずとなった。母はだらしない顔で「つまらないことにこだわらなければ、助かったものを」と泣いた)
サゲのせりふがわかりにくいのですが、「三百」とは安物・無価値という意味らしく、「つまらないことにこだわって、ひどい目に合った」といったところです。
この小噺は「長い名前を笑う話」のパターンとなっています。そして、子どもの名前に仏教用語が使われていますね。つまり現在の落語「寿限無」と同工異曲なのです。「寿限無」の原型のひとつだと言えるでしょう。
「寿限無」は、生まれた子どもの命名をお寺の和尚さんに頼んだら、いろいろとめでたい名前の例を挙げるので、それを全部つけてしまうという噺です。ついた名前が、「ジュゲム、ジュゲム、ゴコウのすり切れ…」という長いものになってしまいます。
「寿限無」は、サンスクリット語の「アミターユス」の意訳です。阿弥陀さまのことです。また、「ジュゲム、ジュゲム、ゴコウのすりきれ……」の「五劫のすり切れ」とは、巨石が擦り切れるのを一劫と考える時間の単位からきています。つまり法蔵菩薩の五劫思惟のお話が織り込まれているわけです。
【第8回おわり】南御堂新聞2016年11月号掲載 / 2020/08/20 オンライン公開
第9回 長い名前~その②~
「海外の仏教界に衝撃を」
前回、「欲から沈む淵」(『軽口御前男』)という小噺を紹介しました。この噺は“仏典から子どもの名前をつける” “長い名前を笑う”といったパターンでしたね。同じように長い名前を笑う噺である「寿限無」に比べると、「欲から沈む淵」は少しブラックな仕立て(最後に子どもが行方不明となる)になっています。
実はこの手の噺が海外の仏教界に衝撃を与えたこともあります。かつて野口復堂という京都生まれの講談師がいました。明治時代、野口復堂はインドへ渡り、そこで落語「長名(ながな)」を披露したのです。「長名」は、お寺の和尚が子どもの命名を頼まれる噺です。和尚は子どもに『法華経』陀羅尼品(だらにぼん)の一節である「アニ、マニ、マネ、ママネ…」という名前をつけます。「長名」は現存していませんが、「寿限無」の先駆的な噺であると言えます。最後は井戸で溺れ死にしてしまうという、やはりちょっとブラックなオチです。桂米朝さんは、この噺はオチが残酷だったために消えたのではないかと語っていました。
野口復堂が「長名」を語った時、その場にいたインドの梵語博士エン・プンヂット・バッシヤチャリヤは笑うどころか、感涙して復堂に握手を求めます。そして、「釈迦仏の教えははるか日本に届いていた。しかも落語家なる者すら『法華経』陀羅尼品を口にするとは。インドで廃れかかっている仏教は、日本ではこれほど広まっているのだ。なんとありがたいことではないか。美しきは日本国!」と讃嘆したそうです。「アニ、マニ、マネ、ママネ…(安爾、曼爾、摩禰、摩摩禰…)」は陀羅尼ですので、翻訳されることなくそのまま発音します。だからバッシチャリヤ博士はすぐにわかったわけです。
最後に長い名前が出てくる演目をもうひとつご紹介します。「延陽伯」(江戸落語では「たらちね」)です。「延陽伯」は次のようなストーリーです。
【長屋で暮らす独身の男に縁談話が舞い込む。相手は若くて器量良し。しかし難がひとつある。それは、言葉が丁寧過ぎるということ。さる高貴なお家に勤めていたため、そうなったらしい。男は「そんなことは気にしない」と言い、二人は結婚することとなる。
さて実際にその娘が家にやって来ると、確かに言葉が丁寧過ぎる。そのため、何を言っているのかわからない。たとえば「あなたの名前は?」と尋ねと、娘は次のように言う。「わらわの父は元・京都の産にして、姓は安藤、名は慶三。あだ名を五光と申せしが、我が母、三十三歳の折、ある夜、丹頂を夢見、わらわをはらみしが故に、たらちねの体内をいでし頃は『鶴女、鶴女』と申せしがこれは幼名。成長の後これを改め『延陽伯』と申すなり」と答える。「なんと長い名前だ」と男は困り果てる。万事においてこの調子なのだ…】
女性の名前は「延陽伯」なのですが、説明が長いのですね。この二人がどんな新婚生活を送るのか、ぜひ実際に落語でお聞きください。
【第9回おわり】南御堂新聞2016年12月号掲載 / 2020/08/24 オンライン公開
第10回 宗派仏教と落語
「それぞれの宗派の特性を」
日本仏教は、禅は禅の宗派、念仏は念仏の宗派、法華は法華の宗派、密教は密教の宗派などと、それぞれに特化しています。近世においてこの形態が明確になりました。そしてこれは日本仏教だけの事情です。世界の仏教は、学派や系統によるゆるやかな宗派はあるものの、日本のような「宗派仏教」にはなっていません。日本仏教のユニークなところです。
なぜこのような形態になったのでしょうか?「ただ一つを選び取って仏道を歩む」という中世日本仏教の性格が基盤になったと思われます。中世の日本仏教は、シンプルでピュアな性格を目指しました。この方向性を決定づけたのは、法然上人の専修念仏の姿勢でしょう。法然上人は、万人が歩みやすい仏道を提示しました。誰もが歩みやすいという方向性の結果、それぞれに特化した宗派が生まれたわけです。
安楽庵策伝の『醒睡笑』には、それぞれの宗派の特性を揶揄した小咄がいくつも出てきます。策伝自身、説教においてこの手の小咄を語ったのでしょう。さぞや大ウケだったに違いありません。この手の小咄に反応して笑うためには、仏法についての知識も必要であり、普段の人間観察も必要です。
『醒睡笑』に書かれた宗派仏教の小咄はいずれご紹介するとして、今回は現在も落語のネタとして語られている噺を宗派別に分類してみましょう。このような分類の取り組みは、仏教文学研究者・関山和夫氏の大きな業績です。関山氏の研究を踏まえて、各宗派に特徴的な噺を列挙してみます。また、宗派には特定しにくいものの、仏教テイストが入っているネタも「その他」として並べます。
①浄土真宗…「宗論」「菊江仏壇」「お文さん」「亀佐」「親子茶屋」「お座参り」「浮世根問い」「後生鰻」「寿限無」など。
②浄土宗…「小言念仏」「阿弥陀池」「お血脈」「万金丹」「百八坊主」「反魂香」など。
③時宗…「鈴ふり」など。
④融通念仏宗…「片袖」など。
⑤日蓮宗…「鰍沢」「甲府い」「法華長屋」「刀屋」「中村中蔵」「堀川」「法華坊主」など。
⑥臨済宗…「こんにゃく問答」「近江屋丁稚」など。
⑦曹洞宗…「野ざらし」「茄子娘」など。
⑧真言宗…「大師の杵」「大師の馬」「悟り坊主」など。
⑨天台宗系…「鶴満寺」など。
⑩その他…「景清」「天王寺詣り」「弱法師」「山号寺号」「くやみ」「片棒」「仏馬」「地獄八景亡者戯」「錦の袈裟」「死ぬなら今」「先の仏」「死神」「三年目」「らくだ」「西行」「鼓ヶ滝」「松山鏡」「除夜の雪」「七度狐」「一目上がり」「堪忍袋」「五光」「転失気」「手水回し」「黄金餅」「きらいきらい坊主」「ぬの字ねずみ」など。
【第10回おわり】南御堂新聞2017年1月号掲載 / 2020/08/25 オンライン公開
第11回 宗派の特性を笑いに
「庶民の間に根を張った教え」
前回、「安楽庵策伝の『醒睡笑』には、それぞれの宗派の特性を揶揄した小咄がいくつも出てきます」と述べました。今回はそれを少しご紹介しましょう。
たとえば、巻之八「頓作」には次のようなお話が出てきます。
法華の沙門と時宗の法師と知音にて、とりどり参会ありしが、いかがはしたりけん、法華の沙門、「このごろ栗毛の馬を求めたり。一段気に入りて、時宗栗毛と名を付けたは」。
「何の仔細に時宗は出たぞ」。
「とかくこの馬、躍りたがる」。
すなはち時宗の法師、「われも四五日以前に葦毛の馬を買うたは。名を法華葦毛とつけたよ」。
「いかなれば法華といふぞ」。
「とかくかの馬、口がこはさに」。
〈※大意…日蓮宗(法華宗)の僧侶と時宗の僧侶とが知り合いで、ときどき会うことがあった。どういったわけか、日蓮宗の僧侶が「このごろ栗毛の馬を購入した。とても気に入って、時宗栗毛と名前をつけたよ」などと言い出した。そこで時宗の僧侶は「どういう事情で時宗などという名前になったのか?」と聞けば、日蓮宗の僧侶は「とにかくこの馬が跳ね踊りたがるからだ」と答えた。すると今度は時宗の僧侶が「私も四~五日前に葦毛の馬を買った。名前を法華葦毛とつけたよ」と言う。日蓮宗の僧侶「どういうわけで法華というのか?」。時宗の僧侶「とにかくその馬は口が達者なんだよ」〉
時宗の踊り念仏や、日蓮宗の論争傾向を笑いに転化しているわけです。
あるいは巻之七「思の色を外にいふ」の中からひとつ読んでみましょう。
当宗の檀那、帰依する寺の普請あるに、行きて小壁下地を掻きけるが、あやまちに縄きれ、高き所より落ちさまに「南無阿弥陀」と叫ぶ。同行の者のすくひ助け、心地少し出でたる時、「かりそめにも題目をば念ぜずして、いかがなればあさましく念仏をば申しつるや」と問ふ。「さればよ、さきの落ちさまには、ていど死ぬると思うてあつたは」と。
〈※大意…日蓮宗の檀家さんが、帰依しているお寺の建築工事の際に、室内の壁の下地を編んでいたところ、誤って縄が切れて高いところから落ち、その時に「南無阿弥陀」と叫んだ。同行の者たちが助けて、本人が少し落ち着いたところで、「かりにも法華の者がお題目(南無妙法蓮華経)を唱えずに、あさましくも念仏を称えるとはどういうことだ!」と問いただした。落ちた男は、「それが、落ちる時にてっきり死ぬと思ったもので」と言った〉
『醒睡笑』には、天台宗や真言宗なども出てきますが、やはり「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」の話が繰り返し出てきます。どちらも庶民の間に根を張った教えですからね。今日の落語でも、お念仏とお題目はしばしば出てきます。また、上方落語はお念仏の噺、江戸落語はお題目の噺が多いという特徴があります。
【第11回おわり】南御堂新聞2017年2月号掲載 / 2020/08/26 オンライン公開
第12回 松山鏡の源流は
「“鏡”から仏教思想の影響を」
「落語の歴史」のお話が続いていますので、少し趣を変えて現代における落語のネタを見ていくことにしましょう。
お能に「松山鏡」という演目があります。そして落語にも「松山鏡」があるのです。お能の方は、越後の松山を舞台に、娘が鏡を見ながら母の面影を偲び、やがてその功徳で母が成仏するといった仕立てになっています。一方、落語の「松山鏡」は次のような内容です。
「鏡というものを知らない人が多かった時代、越後の松山でのお話。正直者で有名な正助。お上が何か褒美をとらせるということになったが、元来無欲なので、欲しいものがない。何か望みはないかと問われ、死んだ父に会いたいと申し出る。そこでお上は一計を案じ、つづらの中に鏡を入れて褒美にする。正助がつづらをのぞくと、父がいると喜ぶ。実は父親にそっくりな自分の姿を見ていたのである。それから毎日正助は蔵の中に置いたつづらをのぞいては喜んでいた。それを女房は浮気相手がいると勘違いするのだが……」
そして最後に尼僧が出てきてサゲとなります。
この噺の原話は『百喩経』の三十五番「つづらの中の鏡」だと言われています。『百喩経』は短い話が約百話掲載されている仏教経典で、そのひとつひとつに仏教の教えが添えられています。滑稽な出来事や人の愚行などが題材となっていて、素朴なユーモアも盛り込まれた興味深いお経であるといえます。このお経は、当時の僧侶が実際に語っていた説法をもとにして成立したのだと思います。
さて、その「つづらの中の鏡」ですが、次のような記述になっています。
昔、ある人が、貧乏で困っていた。ひとから多くの借金をして返すことができず、そのため逃げ出して、ある荒野へやってきた。そこで彼は、珍しい宝物のいっぱいつまっている、つづらに行き当たった。その中には、よく映る鏡が入っており、宝物の上にかぶせてあった。貧乏人がつづらを見て、大喜びして、すぐに蓋をあけると、鏡に人の影が映った。そのため、彼はおどろき恐れて、手をあわせて言った。「わたしは、これが、空のつづらで、だれの持ち物でもないと思ったのです。あなたがこの中にいらっしゃるとは知りませんでした。どうぞ怒らないで下さい」。(『百喩経』三十五番)
この噺では、我々は幻のような「自分」にまどわされ、まるでそれが真実であるかのように信じている、それでは苦悩は解体されない、といった仏教の教えが説かれています。すなわち仏教の認識論・存在論ですね。
ただ、これでは落語の「松山鏡」とはずいぶん内容が異なります。おそらく源流はここにあるものの、説教や語り芸能の因縁話がさまざまに拡散・展開した結果、今のような形に落ち着いたのでしょう。とにかく、「鏡」をモチーフにしているところに、仏教の思想の影響を見て取ることができます。仏教の認識論は、しばしば鏡を喩え話に使ってきましたから。
【第12回おわり】南御堂新聞2017年3月号掲載 / 2020/08/27 オンライン公開
第13回 蒟蒻問答の批評性
「宗教の性質を笑いに」
仏教がモチーフになった落語の演目は数あれど、その最高峰は「蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)」でしょう。「蒟蒻問答」は、二代目・林家正蔵の作と言われています。二代目の正蔵は元・曹洞宗の禅僧で、托善という僧名をもっていたそうです。
今日語られている「蒟蒻問答」は次のような内容となっています。
喰うに困った遊び人の八五郎、かつての兄貴分であり今は蒟蒻屋を営む六兵衛の世話により、ニセ僧侶としてお寺に入り込む。寺男の権助とも気が合って、すっかり気楽に暮らすようになったのだが、永平寺から来た旅の雲水・托善が訪ねて来て、禅問答を挑まれる。問答に負けると寺を出なければならないので、なんとか修行僧を追い返してもらえないかと、また兄貴分の蒟蒻屋に相談する。
蒟蒻屋の六兵衛は寺の住職に扮して、雲水を追い返そうとするが……。
実は、この噺、関西では蒟蒻屋が餅屋になっています。だから「蒟蒻問答」ではなく、「餅屋問答」と言います。なぜ関西では餅屋になるのか。関東と関西では、蒟蒻と餅の形が違うからです。そのあたりは実際に噺を聞いた上で考えてみてください。
さて、この噺のクライマックスは、雲水・托善とニセ住職・六兵衛とのやり取りです。六兵衛は、雲水がいくら禅問答を仕掛けても、黙ったままでやり過ごそうとします。そこで禅僧は、仕草で禅問答を始めます。禅僧が仕掛ける問いに対して、六兵衛はことごとく勘違いして応答します。そして六兵衛の応答を禅僧も勘違いして受け取ります。双方が勘違いをしているのに、成立する禅問答。お互いに言葉を使わず、仕草でやり取りするので、こんなことになるんですね。結果的に、雲水は「とてもありがたい教えをいただきました。どうやら私は慢心していたようです。一から出直してまいります」と去っていきます。六兵衛は蒟蒻の話をしているつもりだったのに、雲水は仏法の教えだと受けとめそこなったのです。そのナンセンスな様子が見どころ、聞きどころです。
他にもこの噺は、お寺の符牒が出てきたり、本堂の描写が楽しかったり、最初に雲水がしかける問答がクイズになっていたり、聞きどころが随所にあります。
なにより宗教への強烈なアイロニーがあります。「どれほど難しい学問や厳しい修行しているのか知らないが、日常を懸命に生きている我々にしてみれば滑稽に見える」といった批評性です。落語は庶民の芸能ですから、世俗から離れた禅の修楽・修行のような姿をからかったりするわけです。しばしば近視眼的になりがちな宗教の性質を笑い飛ばす、芸能の本領発揮であるとも言えるでしょう。その魅力を垣間見ることができる演目なのです。
【第13回おわり】南御堂新聞2017年4月号掲載 / 2020/08/30 オンライン公開
第14回 宗論はどちらが負けても釈迦の恥 ①
「しっかりと教義を語る」
「宗論」という狂言の演目があります。宗論とは、宗教論争や宗派論争のことです。江戸時代以前は、かなり盛んに行われていました。法然上人と天台宗僧侶たちとの「大原問答」をご存知の人もおられるでしょう。安土城で浄土宗と日蓮宗が議論を戦わせた「安土宗論」もよく知られています。
江戸時代になって、幕府の宗教政策(寺請制度や本末制度など)により、各宗教・各宗派はテリトリーを明確化して、共存するようになりました。それで仏教各派同士の宗論はほとんどなくなったようです。
狂言の「宗論」は、浄土宗の僧侶と日蓮宗の僧侶の二人が連れだって旅を続けるうちに宗論となってしまうストーリーです。そして、宗論で負けた方は宗旨替えする約束をかわすまでにヒートアップしてしまいます。互いに相手の教義について攻撃し合うのですが、その応答がでたらめなのです。ついに浄土宗の僧は「踊り念仏」を始め、法華宗の僧は対抗して「踊り題目」をする有様です。そのうちに、うっかり浄土宗の僧は題目を唱え、法華宗の僧は念仏を称えてしまいます。二人は笑い合って、「法華も弥陀も隔てはあらじ」と仲直りします。
この狂言「宗論」をヒントにして作られたと言われているのが落語の「宗論」です。明治後半か大正の初めあたりに益田太郎冠者(本名:益田太郎)が創作しました。益田太郎冠者は、三井物産創始者・益田孝(後の三井財閥総帥)の跡継ぎです。中学卒業と同時にイギリスのケンブリッジ・リース中学に留学、その後ベルギーのアントワープ商業大学へ進学しました。八年後、帰国して実業家として活躍する一方で、喜劇作家・益田太郎冠者として活動しています。日本最初のナンセンスコメディを展開した人物として知られており、落語から流行歌、演劇や歌劇にいたるまで大衆芸能全般に大きな影響を与えました。歌謡曲「コロッケの歌」の作詞者でもあります。落語は「宗論」以外にも、「かんしゃく」や「堪忍袋」を作ったと言われています。
落語「宗論」は、熱心な浄土真宗の門徒の息子がクリスチャンになったという設定です。一般的には、息子の西洋かぶれの様子が誇張されて演じられることで笑いが起こるネタですが、落語の中で父はとうとうと真宗教義を語り、息子はキリスト教の教えを語るのです。私は、双方ともしっかりと教義を語るところが、この落語の聞きどころだと思います。
落語の中で、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と語られるのですが、これは狂言の「法華も弥陀も隔てはあらじ」と同意です。しかし、落語の「宗論」は異宗教間の論争なので、「釈迦の恥」にはならないのです。このあたりの大雑把なところも落語らしいと言えるのかもしれません。
【第14回おわり】南御堂新聞2017年5月号掲載 / 2020/08/31 オンライン公開
第15回 宗論はどちらが負けても釈迦の恥 ②
「芸能が宗教を揺さぶる」
落語の「宗論」を聞いていますと、あらためて「宗教を揺さぶる芸能の力」を実感します。
そもそも宗教というのは、ある方向へと人格を導き、価値観を構築していきます。だから生き方にしっかりとした軸が形成されるのです。しかし、時には偏狭な見解になり、排他的になり、おのれのみが正しいといった姿勢になる場合も起こります。その枠組みを芸能が揺さぶるのです。庶民の芸能では、宗教的権威や宗教者が揶揄され、偏った信仰が笑いの対象となります。私のイメージで言いますと、「宗教が凝縮しようとするのを、芸能が脱臼させる」といった感じです。ですから、宗教と芸能の二領域が両輪のように回っている状態がとても豊かだと思うのです。私が「宗教の中の芸能性・芸能の中の宗教性」に注目しているのは、このためでもあります。
さて、落語「宗論」では、熱心な御門徒である父親が阿弥陀様のお話を語る場面があります。その部分を取り上げてみましょう。
「阿弥陀さまといえるお方は法蔵菩薩の昔、世自在王仏と言える尊きお方の御元にましまして、我れ超世の願を建つと、五劫の間という中は、火の中水の中において難行苦行あそばさせられ、のちには阿弥陀如来という尊きお方におなりあそばされたのじゃ。もったいないこっちゃないかいな、わしらじゃとて、今日が日にも息が切れたなら、お待ちもうけのお浄土へまいらしていただく。こんな結構なことはないやないかい、ありがたいこっちゃないかい。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……」
こんな内容となっています(ここは噺家さんの腕の見せ所です。立て板に水のように語ります)。これなどは、ひと昔前の説教者の口調そのままです。近年ではこのようなお説教を聞くこともめずらしくなりましたね。そして、かつて篤信の真宗門徒はこのくらい語りました。もちろん、今でもそういう人はおられます。そこが浄土真宗という宗派の特性だと言えるでしょう。専門に勉強したわけでもないのに、説教のお聴聞を続けているうちに、このような語りが身体化する、ここに真宗の素晴らしさがあります。
一応、解説しておきますと、「元はある国の王であった修行者・法蔵菩薩は、世自在王仏のもとで修行されて、悟りを開き如来となった。それ阿弥陀様である」という仏典に説かれている“阿弥陀仏ストーリー”がこの場面で展開されています。この父親は、見事に阿弥陀様の物語を息子へ説き聞かせるのです。それにしても、「私を救うために法蔵菩薩はご苦労された。ありがたい。今日にも息が切れたら、阿弥陀様が待ってくださっているお浄土へとお参りさせていただけるのだ」といった真宗の教えが、落語の中で展開されているなんて、とても興味深いと思いませんか。
【第15回おわり】南御堂新聞2017年6月号掲載 / 2020/09/01 オンライン公開
第16回 宗論はどちらが負けても釈迦の恥 ③
「キリスト教の対比」
もう少し落語の「宗論」のお話を続けましょう。
「宗論」ではことさら“キリスト教は外来宗教”ということが強調されています。つまり、その対比として伝統的宗教である浄土真宗が設定されているのです。
この噺の中では、キリスト教にかぶれている息子がキリスト教的言説を振り回します。たとえば息子は、阿弥陀様を拝む父に対して、「私も以前はお父さまのように偶像物を信じていました」などと言い放ちます。これはユダヤ教・キリスト教の十戒にある「偶像崇拝の禁止」による教えですね。十戒の教えからすれば、仏像などは偶像崇拝となります。
さらに息子は、「ユダヤの地に大飢饉がおとずれた時、イエスさまが祈ると、天から肉がくだり、パンがくだり、野菜がくだり…」とイエスの奇跡を語ります。この場面は、どこに原話があるのは不明なのですが、有名な「五千人の給食」(イエスのもとへ五千人もの人が集まったとき、食べ物が 魚二匹とパン五切れしかなかった。しかし、これを分配するとなぜか全員が飢えずにすんだという奇跡譚)や、「天からのパンであるマナの物語」(奴隷の状態から解放され、エジプトを脱出して荒野を旅するイスラエルの民が、持っていた食物が尽きる。リーダー役のモーセが神に祈ると天から不思議な食べ物・マナが降ってきたという奇跡譚)などから創作されたのではないでしょうか。
現在ではサゲ(落ち)のパターンも語り手によっていろいろ工夫されています。多くは「権助や、おまえは真宗か?キリストか?」「いいえ私はお二人の仲裁をした時の氏神でございます」というものや、「権助や、おまえも真宗かい?」「いえ、私は紀州の生まれでございます」となります。しかし中には、権助がイスラム教徒だったり、キリシタンだったりするパターンもあります。また、上方落語には「もともとこの家は仏壇屋である」という設定の形もあるのです。落語のネタというものは、多くの人の手によって肉づけされ、練り上げられていくものであることがよくわかる例です。このように、噺家さんによって異なる部分があるのは、古典落語の楽しみでのひとつです。同じ噺でも、語り手による相違を楽しむことができます。また、そのうちに「この人の『宗論』が聞きたい」などともなってきます。
それにしても、「宗論」を聞くたびに、「もはや現代日本人にとっては、法蔵菩薩の物語よりも、イエス・キリストのエピソードの方がなじみ深いものになっているなあ」と感じます。おそらくこの噺が作られた当初は、逆だったんじゃないでしょうか。当時の聴衆にとって、キリスト教のお話はずいぶん耳新しいものであったことでしょう。イギリス帰りの作者・益田太郎冠者の狙いもそこにあったはずです。百年あまりですっかり立場が変わってしまいました。おそるべし、キリスト教の語りの力。
【第16回おわり】南御堂新聞2017年7月号掲載 / 2020/09/02 オンライン公開
第17回 仏教が悪役の落語
「神道復興機運が背景」
明治時代の説教本を読むと、次のような話が出てきます。
【親父酒に酔ひて帰り、コリヤ半蔵ヨ己れが頭は三ッ有るから然な者に跡は譲られぬワイ、と云ひけるに、同じく息子も酔て居て、ヘン斯な廻る家を何にするものだ。】
(父親が酒に酔っぱらって帰宅して、息子に向かって「こりゃ、半蔵よ、おまえの頭は三つもあるじゃないか。そんなやつに跡目は譲られぬわい」と言った。ところがこれを聞いた息子も酔っぱらっていて、「ふん、こんなぐるぐる回る家などいらないわい」)『説教洒落嚢』
ご存知の方もおられるのではないでしょうか。これは「親子酒」という落語のサゲの場面ですね。それがそのまま「説教本」に掲載されているわけです。こういうネタが明治時代の説教で語られていたことに感心しました。もちろんお説教ですので、このあと不飲酒戒について書かれています。「親子酒」の場面を語っておいて、仏法につなげていくのです。
ところで、明治時代は仏教がずいぶん批判された時期でもあります。ご存知のように、幕末から明治にかけて、神道復興機運が盛り上がります。同時に仏教へのバッシングが起こりました。そして、まさにそういった事情が背景となった落語のネタもあります。次に挙げる「神道又」(別名、三年酒・神道の御酒)はその代表です。
【まだ人別帖を寺が担当していた時代、大坂の茨住吉神社で神道講釈を聞いて影響を受けた又はん。やはり日本は神道の国だ、などと考えるようになる。ある時、又はんは池田のおじのところで酒を飲んで帰って来る。ところが翌朝になっても起きてこない。家族は死んだものと思い、葬式を出すこととなる。又はんが「神道で葬式出したい」と言っていたので、神式で行おうとするが、旦那寺の住職が認めない。みんなで協力して、無理やり神道で葬式を行い、土葬する。実は又はんが飲んだ酒は、飲むと三年間死んだようになるという中国の特殊な酒であった。土葬されたことで又はんは目覚める】(※筆者によるまとめ)。
始めから最後まで仏教やお寺が悪役になってストーリーは進み、ラストには「神道だったから助かった。仏教なら焼かれていた」となります。つまりこの噺は、仏教なら火葬、神道なら土葬、といった各宗教特有の思想・習俗と引っかけているところに特徴があります。こういう噺は貴重ですね。死者儀礼はどの宗教においても重要な要素ですから。そこを見事に取り上げているわけです。比較宗教的な考察をする上でも味わい深いネタでしょう。
他にも、神道を題材にしたお噺は少なくありません。次回、神道系の落語をいくつかご紹介してみましょう。
【第17回おわり】南御堂新聞2017年8月号掲載 / 2020/09/03 オンライン公開
第18回 神道系の落語
「神道と仏教の論争の噺も」
前回、「神道又(しんとうまた)」というめずらしいお噺をご紹介しました。このお噺は、神道の信仰が重視され、仏教を批判的に取り扱っています。国学が盛んになり、廃仏毀釈の機運が盛り上がった時代背景が反映されたネタであろうと思われます。
仏教系ほどではありませんが、神道系のネタも少なくありません。今回は神道系の噺を列挙してみましょう。たとえば、しばしば上方落語の基本とされる「東の旅・発端」という噺をご存知でしょうか。見台と小拍子・張扇などを使って、にぎやかに語るお噺です。語りのリズムや、声の張りを身につけるのに良いネタなのだそうです。この「東の旅」は「発端」から始まり、「煮売屋」「七度狐」「うんつく酒」「軽業」「矢橋船」「こぶ弁慶」「三十石夢の通い路」など一連のシリーズになっています。それぞれ個別に聞いたことがある人もおられるでしょう。これは大坂からお伊勢参りへ行き、京都を通って帰って来るストーリーです。「東の旅」の別名は「伊勢参宮神乃賑(いせさんぐうかみのにぎわい)」です。
あるいは、神道の〝水に流す構造〟を下敷きにした「風の神送り」や、神道と仏教の論争を扱う「神道の茶碗」(別名、神仏論)などもユニークな噺だと言えます。
神道関係のネタは、仏教のように宗派で分けることはできませんが、以下のように分類してみました。
①天神系…「初天神」「天神山」「狸の賽」「質屋蔵」など。
②住吉系…「住吉駕籠」「卯の日まいり」「和歌三神」など。
③稲荷系…「稲荷俥」「紋三郎稲荷」「王子の狐」など。
④その他の神社・参拝…「人形買い」「牛ほめ」「住吉駕籠」「高津の富」「つぼ算」「東の旅」「西の旅」「初天神」「いらちの愛宕詣り」「大山まいり」「愛宕山」「富士詣り」「崇徳院」「佃祭」など。
⑤言霊・卜占系…「つじうら茶屋」「けんげしゃ茶屋」「かつぎや」「米あげ笊」「松竹梅」など。
⑥その他…「氏子中」「厄祓い」など。
「人形買い」では神道者と呼ばれる民間宗教者が登場したり、神功皇后の話が出てきたりします。また、「牛ほめ」には秋葉山の御札が出てくるので、ここに加えました。仏教系のネタでも同様の事情ですが、かなり無理してあてはめている噺もあります。また、本来は宗教色が強い演目であったのに、現在ではそれが薄まってしまっているものもいくつか見られます。
「住吉駕籠」では、「眼が覚めたらええ天気、一辺すみよっさんでもお参りに」といったくだりが繰り返し語られます。いかにも庶民の日常に根ざしたムードがとてもいい感じです。やはり上方落語では、住吉大社や高津神社、あるいは天満の天神さんなどがよく登場します。
「大山まいり」は、神奈川県大山の山頂「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」に、旧暦六月から七月にかけ参拝するもので、江戸期の人々に、富士山の霊験を信仰する「富士講」とならび、大変人気の高い民間信仰でした。
【第18回おわり】南御堂新聞2017年9月号掲載 / 2020/09/04 オンライン公開
第19回 市民宗教としての仏教
「我々の文化風土や体質に」
以前、スイスのマスコミから日本の宗教について取材を受けたことがあります。その際に、「日本の『市民宗教』とは、どういうものでしょうか?」と尋ねられました。市民宗教とは、「伝統宗教の教えや様式が無自覚化・肌感覚化して、もはや宗教として意識されないレベルにまで拡散した状態」を指します。宗教社会学者のロバート・ベラーは、アメリカ人の大多数がキリスト教のプロテスタンティズム的な思考傾向や価値観や行動様式を共有していると分析しました。それはクリスチャンという枠を超えて、日常生活に溶け込んでいます。それが市民宗教です。「日本の『市民宗教』は?」と聞かれて、私は「やはり仏教と神道が大きな領域を占めていると言えるでしょう」と答えました。
解剖学者の養老孟司氏も、「日本人が真剣に思考・思索すれば、どうしても仏教的になり、神道的になる」と発言しています。たとえば、日本人が「生と死」について真面目に考えるとすれば、仏教用語なしでは考察できないでしょう。それほど、日本語体系の中に仏教が溶け込んでいるのです。
同様に、我々の身の回りを注意深く点検してみれば、さまざまなところで仏教が花咲いていることに気がつくはずです。音楽や踊り、建築や生活様式、伝統芸能からサブカルチャーにいたるまで、仏教の精神が潜んでいたり仏教テイストが加味されていたりします。つまり仏教の市民宗教化です。
さて、そこで落語に目を向けてみましょう。前回まで、仏教系落語や神道系落語を取り上げてきました。これも市民宗教的な現象です。繰り返しお話してきたように、落語の成り立ちから展開に至るまで、仏教の説教や説話が大きく関与しています。落語の形態そのものも説教の色合いが濃いと言えます。ネタも各宗派を取り扱ったり、庶民の信仰をモチーフにしたりと、日本仏教の花が随所に咲いているのです。
あらためて確認してみますと、“語りの技法”“形態・様式”“根多・内容”、いずれも落語には仏教的要素が伏流しています。今日、落語とは「衣装や道具を極力使わず、和服を着て高座で正座をして、一人で語る語り芸能」と定義されていますが、このような芸能は世界で落語だけのようです。スタンダップコメディや漫談の形態は世界中で見ることができます。しかし、一人の人物が和装で正座したまま、メーキャップも衣装も背景も伴奏もなしで行う素噺は他にない。このスタイルは日本仏教の説教の形態が影響していると思われます。
すでに仏教の説教の方では「高座で語る」といった形が崩れてしまっており、多くは演台を使って講演・講義形式となっています。ところが落語はいまだに伝統的な説教の形態を引き継いでいるのです。しかも誕生から約四百年、ずっと庶民の娯楽として活躍し続けてきました。一時期衰退しても、また静かなブームが訪れています。これは我々の文化風土や体質に合ったものであることの証拠だろうと思います。
【第19回おわり】南御堂新聞2017年10月号掲載 / 2020/09/05 オンライン公開
第20回 「後生鰻」から学ぶ
「権威を笑いで相対比」
落語に出てくるのは、もっと遊びたい、楽して暮らしたい、などという人ばかりです。立派な人はめったに出てきません。すなわち、落語は「人間なんてろくなもんじゃない」と語りかけているようでもあります。ただ、それを嘆くのではなく、笑うのです。ここが落語のいいところです。いろいろと具合悪いところがあるけど、それはあんたもオレも同じようなもんだ、だましだましやっていこうじゃないか、といった人間観を基盤としているのでしょう。
ですから落語は、政治や宗教がもつ権威を笑いで相対化してしまいます。この点は、落語のみならず、世界中の芸能がもつ能力でしょう。ことに「笑い」は相対化の機能が高い。落語においては、奉行や僧侶が笑いの対象になってしまいます。落語にはしばしば僧侶が登場しますが、やはり立派な高僧・名僧は出てきません。ほとんどの場合、いい加減な僧や強欲な僧ばかりです。これは安楽庵策伝の『醒睡笑』以来の伝統的なパターンなのです。いや、僧侶だけではありません。落語では熱心な信仰者も笑いの対象にされてしまいます。「後生鰻」というネタはその代表的な例だといえるでしょう。ご存知のように、後生とは来世のことです。どんな噺か少しだけご紹介しましょう。
真宗門徒で大店の旦那が、お寺の御法座で「殺生しないように」というお説教を聴き、その教えを真面目に守ろうとする。ある時、鰻屋の前を通りかかると、今にも鰻がさばかれる寸前。そこで旦那はその鰻を買い取り、川に逃がす。鰻屋は労せずして儲けることができて喜ぶ。その日から鰻屋は、旦那が通る時刻にわざと鰻をさばくフリをして高い金額で売りつけるようになる。
そんなある日、旦那が来ているのに売りつける鰻がない。とっさに鰻屋は驚くべき行動に出るのだが……。
「後生鰻」の旦那は、ある意味での篤信者です。しかし、どこか仏教の教えを受けとめそこねています。変な偏りがあるのです。この噺は次第に偏っていく人間の具合悪さを、ブラックユーモア的な笑いで描いています。このような展開は、まさに落語の面目躍如たるところでしょう。
この噺を聞くたび、「自分が“正しい”と思った瞬間から、見えなくなるものがある」と説く仏教の教えが想起されます。仏教は、偏りのない思考や行為を目指します。だから常に仏法と我が身を照らし合わせて、点検を怠らないようにと説くのです。我々はすぐに偏ってしまいます。どんなに「正しい」と思われているような思考も行為も、次第に偏っていくのです。そして、偏ると苦悩が発生します。熱心なあまり偏ってしまう信仰者を笑うあたり、「後生鰻」は落語の底力を感じる演目だと思います。
ちなみに「後生鰻」は江戸落語の呼称で、上方落語では「淀川」となります。
【第20回おわり】南御堂新聞2017年11月号掲載 / 2020/09/07 オンライン公開
第21回 落語にとっても悲しい時代
「戦時中に噺が自粛禁演」
前回、「後生鰻」という落語をご紹介しました。実はこの噺、戦時中に「時局に合わない」との理由で禁演の対象となっています。「後生鰻」だけではありません。「明烏」(堅物の若旦那が遊郭に連れて行かれる噺)、「居残り」(金も無いのに遊郭で遊び、そのまま住み込んでしまう男の噺)、「親子茶屋」(息子の放蕩ぶりを歎く父親。実はこの父親も遊び人だったという噺)、「子別れ」(大酒飲みで女遊びが好きな大工・熊五郎が、出て行った妻子とやり直す噺)、「悋気の独楽」(嫉妬深い奥さんと、妾宅へ行って帰って来ない旦那と、その間に立たされた丁稚の噺)、「紙入れ」(出入り先のおかみさんに誘惑された小間物屋の新吉が、浮気現場に財布を忘れてきてしまう噺)、「蛙茶番」(町内の素人芝居で、ふんどしを締め忘れて舞台に上がってしまう男の噺)、「不動坊」(急死した講釈師不動坊の妻・お滝が、長屋の利吉と再婚することになる。それが気に入らない男たちが不動坊の幽霊を仕立てて二人を怖がらせようとする噺)など、五十三種の噺が自粛禁演となるのです。いわゆる禁演落語です。その多くは廓噺や不義・好色に関するものであったのですが、「後生鰻」のように過激な描写があるネタも自粛されたようです。
昭和十六年、これらの演目が本法寺(日蓮宗)の「はなし塚」に納められることとなります。この年、「新体制運動」が起こり、質素倹約が奨励されていました。その影響は演芸界にも及び、各種芸能団体は演題種目について自粛すべき圧力を感じるわけです。そこで東京の落語界では、噺のネタを甲乙丙丁の四種に分類し、丁種(花柳界、酒、妾、廓、不義・好色などに関する噺)から選んで禁演となったのが五十三種でした。ちなみに、関西の落語界はこのような事態にはなりませんでした。関西では、すでに浪曲やしゃべくり漫才が主流となっていて、落語がそれほど俎上にあがらなかったのかもしれません。講談には歴史ものがあり、浪曲には忠孝を説くものがあるので、ある程度の自粛で問題なくやれたようです。講談や浪曲に比べれば、落語はばかばかしいことや風俗を語りますからね。問題視されやすかったのでしょう。
さて、一部の演目が自主規制される中、代わりに国策落語というものが生まれています。「お国の為に」「防空演習」「隣り組」「国策靴」「慰問袋」「めおと貯金」「献金」などといったネタが創作されました。遺された資料でそれらのネタを読んでみますと、実に無残な内容です。落語本来の輝きを見ることはできません。まことに悲しい事態と言えるでしょう。あらためて、政治を笑い、宗教を笑うことができるのは、とても幸せな社会であることがわかります。
禁演落語は戦後に禁が解かれ、昭和二十一年九月に「はなし塚」の前で禁演落語復活祭が行われました。
【第21回おわり】南御堂新聞2017年12月号掲載 / 2020/09/10 オンライン公開
第22回 〝笑い〟からつながる
「立派な説法になる落語が」
現在の「落語」と呼ばれている芸能は、かつては単に「噺」と呼称されていたそうです。噺には落語(落とし噺)だけじゃなく、人情噺や怪談なども含まれます。だから今でも「落語家じゃなくて、噺家と呼ぶべきだ」と考える人もいます。
さて、落語の骨格である「落とし噺」とは、最後にストンと落とす〝サゲ〟の構図をもつストーリーであり、話法です。そこにはある種のカタルシスがあり、不安状態から安心状態への移行があります。つまり笑いが発生するというわけです。この「笑い」という行為は、定義しようとするとなかなか難しいものがあります。「笑い」は無秩序的性格をもつからです。「笑い」について深く考察したアンリ・ベルクソンは「笑いに定義はない」と述べています。なぜなら、笑いを定義づけると、その定義をまた笑うという事態になってしまうからです。
また、ベルクソンは、余剰エネルギーが放出される際に笑いが発生すると考えました。緊張と緩和の落差ということです。でも、緊張と緩和の落差以外にも、遊びや食の際に起こる快の笑いや感情の笑い、挨拶などコミュニケーションの際の笑いなどもあります。コミュニケーションで笑うのは霊長類だけだそうです。そして、ヒト以外の霊長類の笑いは基本的に「挨拶の笑い」であり、もともとは毒を吐きだす際の顔から発生したとも考えられています。
一方、ヒトにおける笑いには、状況を変える力があります。緩和したり、相対化したり、秩序を壊したりする力があります。幼児期の笑いに比べて、成熟した笑いには、他者観察、自己分析、経験則などといった下敷きが必要です。人間の生の営みを見つめる眼と、それを切って捨てるのではなく共感する心性によって成り立つのです。このあたりに“落語の笑い”の魅力があると思います。
さらに、落語を聞き込んでいくと、歌舞伎・浄瑠璃・都都逸・川柳・日本舞踊などに通じていなければ楽しめない事態が発生します。このあたりは他の伝統芸能と同じ事情ですね。伝統芸能というのは、次々と他領域につながる回路をもっています。そして、この連載では「仏教のお説教に通じていると楽しめます」などと(かなり強引な)主張をしているのです。しかしこれはまったく根も葉もない強弁ではないことは、すでに理解してもらえていると思います。お説教と落語はとても密接な関係にあることは間違いないのですから。
それに実際、落語の終盤を少し変えれば立派な説法になる落語は結構あります。落語を合法(仏法へと話を導く)すれば、まるでそこは法座といってもよい場となることだってあるのです。例えば、もし「小言念仏(上方では世帯念仏)」の噺をさらに続け、「そして、このようなあさましい私の口からお念仏が出る。それこそが阿弥陀さまのご本願…」とつなげていったなら、それはもうお説教ですよね。
【第22回おわり】南御堂新聞2018年1月号掲載 / 2020/09/11 オンライン公開
御文
第23回 落語「お文さん」
「船場の真宗文化がベースに」
この連載も、残すところ後2回となりました。
上方落語の多くは船場を舞台にしています。船場は南御堂と北御堂を中心として、真宗門徒のお店やお宅が軒を並べる地でした。そんな近世からの経緯を考えてみれば、『南御堂』の紙面で“仏教と落語”のお話を2年間も続けることができたのは、とてもありがたいご縁であったと感じずにはおれません。あらためて、読者のみなさんに心より御礼申し上げます。
船場の真宗門徒と落語といえば、どうしても取り上げたいネタがあります。「お文さん」です。ご存知、蓮如上人の『御文(おふみ)』がネタのモチーフとして使われています。
【ある日、船場の酒屋「万両」に赤ん坊を抱いた人物が、お祝いの酒を買いにやって来る。ヒゲをはやし、袴をはいた立派な紳士だ。丁稚がその男と共に酒を配達に行くのだが、途中で男の姿は見えなくなり、丁稚が抱いていた赤ん坊だけが取り残される。なんと、捨て子だったのである。丁稚は泣きながらお店へと戻る。
事情を知った大旦那は、「たまたまウチの若夫婦には子どもがいない。この赤ん坊を育てようではないか」と言い出す。若旦那夫婦もそれを了承する。とにかく、まずは急いで乳母を探さねばならない。すると、ちょうど鰻谷にお文という女性がいて、乳母として来てくれることになり、話はとんとん拍子に進んでいく。実はこのお文は若旦那の愛人であった。すべては若旦那の計略であったのだ】
この噺は、『御文』と聞けば蓮如上人のお手紙だとわかることが前提となっています。だから、若旦那の愛人の名前が「お文」であるところに可笑しさが生まれるのです。また、若旦那が日常の勤行において『御文』を拝読する場面が重要なカギとなっています。まさに船場の真宗文化が噺のベースになっているわけです。逆に言えば、『御文』というキーワードに関する知識がないと、成り立たない噺なのです。
そのためか、この噺をかける人は少なく、一時期は「このままこのネタは途絶えてしまうのではないか」といった様相でした。そこで筆者は故・笑福亭松喬師匠(六代目)に依頼して、この噺をもっと盛り上げるように活動したことがあります。なにしろ、落語の中で『御文』が読み上げられるネタは、現在これひとつだけなのです(かつて真宗の説教をパロディ化した「芋の地獄」というネタがあって、これに「信心獲得章」が読み上げられていたのですが、現存していません)。それだけではなく、噺の構成自体がトリッキーで、無くなってしまうにはおしいところもあります。
現在は、数名の噺家さんが「お文さん」を高座にかけていますので、ぜひ機会があればお聴きください。寄席の高座で「白骨の御文」の一節が拝読される場面は、なかなか妙味があります。こういう“船場の真宗文化”の香り高い噺が、消えてしまわないことを願っています。
【第23回おわり】南御堂新聞2018年2月号掲載 / 2020/09/12 オンライン公開
第24回 最後に-(最終回)
「人間の本源的な喜びへの扉」
このコラムでは、日本仏教文化という文脈で落語を考えてみたり、落語の中に脈々と息づいている日本仏教の遺伝子を抽出してみたりすることで、宗教と芸能とが交差している事態の魅力と豊かさを伝えようとしてきました。
宗教と芸能が交差する事態をキャッチするには、感度の良いアンテナが必要です。その事態が発する刺激はとてもかすかなものだからです。もともと伝統芸能自体、現代人にとっては強い刺激になりません。そのかすかな刺激や宗教性・芸能性の波動にチューニングしていくため、こちらは受信アンテナの感度を上げていくこととなります。普段張りめぐらせているバリアを解かねばならないのです。つまり伝統芸能の場に身をおくことは、宗教センスを研ぎ澄ますことでもあると思います。
私自身、伝統芸能の中に潜んでいる宗教性を読み取る時、何とも言えない喜びを感じます。聖と俗を同時に表現する技法にしびれます。そして、その源流をたどっていけば、やはり日本仏教の声明や説教へと行き着くのです。ここに日本仏教の豊かさがあります。日本仏教は、私たちの日常のあちこちに潜んでいます。しかし、よく目をこらし、耳を澄ませてみないと、その姿を感じることはできません。
パーリ語仏典『増支部』の第三に「三人の天使」という説話があります。それは、おおよそ次のような内容です。
【ある男が死んで閻魔王の前に引き出される。閻魔王は「お前は生きている時に三人の天使に会ったか?」と尋ねる。その男は「いいえ、会いませんでした」と答える。
すると閻魔王は「それではお前は老人を見たことがないのか」と問う。男は「いいえ、大勢見ました」。閻魔王「お前は病人を見たことがないのか」。男「いいえ、大勢見ました」。閻魔王「お前は死んだ人を見たことがないのか」。男「いいえ、大勢見ました」。
閻魔王は、「三人の天使は現れているではないか。しかし、お前をその姿を見ようとせず、その声を聞こうとしなかったのだ」と男に告げる】
ここに出てくる「天使」は仏教用語です。そして、この場合は“気づきの契機”を意味しています。きちんと老病死と向き合って、苦難の人生を生き抜く知恵と出会う契機は、日常のあちこちにあるにもかかわらず、私たちはそれを観ようとしない、聞こうとしない、そういうことです。
私たちは、語りに耳をすまし、語りにチューニングする心と身体を大切にしていかねばならないと思います。それが人生の分岐点に違いありません。また、そこには人間の本源的な喜びへの扉があります。ぜひ宗教と芸能が交錯する地平へと歩みを進めてください。
【第24回おわり】南御堂新聞2018年3月号掲載 / 2020/09/14 オンライン公開