南御堂と芭蕉の歴史

南御堂門前で亡くなった松尾芭蕉

 俳聖・松尾芭蕉は、南御堂の門前にあった花屋仁左衛門宅において、51歳でお亡くなりになられました。

 その亡くなる前に詠んだ句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を刻んだ句碑が南御堂の境内に建っています。この句碑は、1814(天保14)年に芭蕉翁150回忌を記念し、天保時代の俳人たちによって建立されたと伝わっています。

 1932(昭和7)年御堂筋拡張工事が行われることとなり、芭蕉終焉の地である花屋仁左衛門宅が消滅することになってしまいます。それを憂いた俳人有志によって「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」と刻んだ石柱を御堂筋の緑地帯に建てられることになりました。それと同時に、南御堂で「芭蕉忌」が営まれることとなったのです。

 1944(昭和19)年の芭蕉翁250回忌には、多くの俳人が南御堂に集い、盛大に勤められたと伝えられています。

『芭蕉の夢』(直原玉青 筆/難波別院所蔵)

 「大阪の芭蕉忌」として法要と句会が開かれ、広く親しまれていましたが、1945(昭和20)年の大阪大空襲によって南御堂は焼失し、やむなく芭蕉忌は中断され、しばらく営まれることができませんでした。

 その後、南御堂の復興の兆しが見え始めた頃、再開を望む気運が高まり、1958(昭和33)年11月30日、当時の俳句会で著名であった山口誓子、阿波野青畝らが参加して、戦後復興後の第1回「芭蕉忌」が仮本堂で盛大に執り行われました。ここから現在まで、毎年開催されるようになりました。 

句碑が並ぶ難波別院の庭園「獅子吼園」

南御堂に集う俳人

 芭蕉忌の際には、参加した俳人らが、芭蕉に思いを馳せて、芭蕉の句碑がある南御堂の庭園「獅子吼園」で俳句をひねる姿が見られます。この句碑の傍らには、芭蕉が俳号とした「芭蕉の木」が植えられ、情緒溢れる庭園となっています。

 また、そのすぐそばには、山口誓子と阿波野青畝の句碑も建てられています。

 この両人は、戦後復興後の芭蕉忌再開にご尽力されただけでなく、『南御堂』新聞の「みどう俳壇」選者としても携わるようになりました。

 このような南御堂とのご縁もあって、1990(平成2)年に、両人の句碑を建立することとなり、「句碑建立奉告法要」が盛大に執り行われました。両人が主宰する「天狼」、「かつらぎ」に属する多くの俳人が参列し、獅子吼園前は大いに賑わったと記録されています。

 その句碑には、「金色の御堂に芭蕉忌を修す 誓子」、「翁忌に行かむ晴れても時雨れても 青畝」と刻まれ、南御堂や芭蕉忌に趣深い句碑となっています。また、庭園の中でも、松尾芭蕉、山口誓子、阿波野青畝の句碑が並んで建っている庭園は珍しく、建立時には多くの報道陣が詰め掛けたといいます。

 現在でも、俳人はもとより、歴史散策の団体や学生らが見学に訪れ、芭蕉を偲ぶ姿が見られます。

 是非、南御堂に参拝の際には、偉大な俳人の句碑を見学していただければ幸いです。