第一次大阪大空襲に寄せて

(2017年3月号掲載)

【ピックアップ小特集】

このページでは、今まで『南御堂』新聞で取り上げた「小特集」をピックアップして公開しています。難波別院とゆかりの深い歴史や事業、仏事の豆知識など、様々な情報や豆知識を掲載しています。

※紙面掲載したものに加筆・修正したものもあります。

過ちを忘れぬために~第一次大阪大空襲に寄せて~(2017年3月号掲載)

 今から約70年前、太平洋戦争末期の3月13日深夜から14日未明にかけて、大阪市はアメリカ軍の焼夷弾爆撃により、壊滅的な打撃を受け、多くの市民が犠牲となった。その中で難波別院の本堂・諸殿も灰燼と帰したが、戦後多くの人々の御懇念によって復興を果たした。

 そこで今月号では、大阪史上、最も多くの犠牲を出した第一次大阪大空襲から戦争の悲惨さを改めて学びつつ、難波別院の復興の軌跡を紹介してみた。

先人たちの御懇念により護持相続された難波別院

無差別な攻撃が

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3月13日深夜、大阪府にアメリカ軍の爆撃機ボーイングB29が襲来し、無数の焼夷弾が降り注いだ。一夜にして、およそ4000人のいのちが奪われ、大阪市の中心部は壊滅的な打撃をうけた。

 この時、アメリカ軍が対象とした「目標および照準点」の地域内には、当時の北区扇町・西区阿波座・港区市岡元町・浪速区塩草町の4ヶ所が指定されていた。

 なぜ、アメリカ軍はこの4か所を第一焼夷弾攻撃地域に定め、攻撃したのであろうか。

 主に、焼夷弾攻撃地域の選定は人口の大幅な増加が見受けられる地域や密集している地域、または軍需産業や工業が集中している地域が対象とされていた。3月10日の東京大空襲は、その基準通り人口の最も密集した下町地区が対象となり、死者は10万人近くにおよんだといわれている。

第一次大阪大空襲によって灰燼と帰した本町周辺

 しかし、大阪の攻撃地域の選定は東京大空襲とは異なり、明確な理由が見つからない。大阪の街は地区による人口の差異は大きくなく、等質的な性格をもっていた。全体的に工場・商店・住宅が無秩序に併存しており、他所の都市と比較しても極めて乱雑な街であった。

 つまり、大阪市の中心部が狙われた理由に、先のような基準は用いられず、爆撃の難易の観点から攻撃地点に定められたようである。アメリカ軍側が記した戦果報告の詳細にも、「攻撃対象となったほとんどが〝住宅地域〟または〝住宅兼商業地域〟」とあることから、日本国民の戦意を喪失させることが目的だったのではないかともいわれている。 

 このことからも、軍需産業や人口の増加という点だけで攻撃地が選ばれていたわけではなく、老人や子どもが暮らす地域も容赦なく狙われた。人が多い少ないではなく、文化遺産があるかないかでもない。そこに大切なものがあろうと、無差別に容赦なく攻撃するのが戦争である。まさに、争いの不条理を知らしめる出来事である。

法灯を絶やさず

 市内中心部に位置する難波別院も、その犠牲となり焦土と化した。その際、番衆に守られたご本尊と宗祖の御影以外の法宝物などは焼失した。終戦後は、焼け残った香部屋の2階を仮本堂とし、階下を別院と教務所の事務所とした。翌年には復興委員会が結成され、協議の結果焼け残った香部屋の前面に向拝付き仮本堂や納骨堂、事務室が新築された。

 その他の境内地については、草が生い茂り荒れ果てていた為、米軍の機械化部隊の援助によって整地され、大阪毎日新聞と提携し、境内地一帯を運動場として市民に開放した。しかし、別院の諸行事に支障をきたすこともあり、土地の南半分を「児童遊園地」として再発足することとなった。

市民に開放された別院境内

 昭和23年に入ると、寺の境内地が国有から寺有として譲渡する法律が国会で成立し、各寺院毎に申請書を提出することとなった。ところが、別院は国有地となった証拠書類が戦災で焼失した為、寺有であることを示す書類を集めて申請したが、遊園地になっている土地については譲渡出来ないとの指示があり、再度書類を添えて返還の手続きにあたった。ようやく全ての土地が返還されたのは昭和25年のことであった。この頃、まだ社会情勢が好転しない時代であったこともあり、復興は思うように進まなかった。何よりも問題となったのは、復興のための資金であり、その問題を解決するために、土地の一部を貸与し、その賃料をもって復興の資金にあてた。また、復興進展の最中に起こる問題に対応し、様々な動きを明らかにすべく『南御堂』紙もこの復興事業の一つとして発刊されている。

 70年前の大空襲により、焼け野原となった大阪。戦後の物資が困窮し、経済的に苦しい時代にあって、法灯を絶やしてはならないと立ち上がった先人たちの御懇念によって護持相続がなされてきた。その歴史の上に今の難波別院がある。

 現在、難波別院の将来を見据え新たな歩みが始まっている。