河内二日講の歴史を訪ねて

(20174月号掲載)

【ピックアップ小特集】

このページでは、今まで『南御堂』新聞で取り上げた「小特集」をピックアップして公開しています。難波別院とゆかりの深い歴史や事業、仏事の豆知識など、様々な情報や豆知識を掲載しています。

※紙面掲載したものに加筆・修正したものもあります。

大阪・大和川の付け替え 河内二日講の歴史を訪ねて(20174月号掲載)

 今から約300年ほど前、江戸時代中頃、大和川の付け替えが行われ、大規模な新田開発が行われた。なかでも深野池における新田開発には東本願寺がその開発を手がけるなど深い関わりをもっている。この新田開発のため入植した門徒の多くは難波別院の直門徒として「河内二日講」を組織し、難波別院を支えてきた。

 そこで今月号は、現在も続く河内二日講が組織される背景を、深野池の新田開発にいたる経緯と共に取りあげて紹介する。

新田開発を機縁に続く河内二日講と難波別院

◇幕府が推進して

 大和川は、奈良県桜井市のあたりから奈良盆地を西に向かい、大阪平野にでると柏原市を通り西へ真っ直ぐ流れ、大阪湾に流れ込む一級河川である。しかし、もともとは柏原市のあたりで石川と合流し北へ流れ、久宝寺川・玉串川に分かれ、その玉串川から深野池や新開池に流れ込んでいた。

 大阪平野は6000年程前は海であり、瀬戸内海から吹く風により運ばれた砂や淀川、大和川などが運ぶ土砂によって少しずつ平野が形成されてきた。そのため海抜が低く、古来より、大阪湾の満潮や高潮さらには大雨などにより大和川の水が逆流し、たびたび洪水氾濫がおこった。

 江戸時代になり、大和川の洪水に悩まされる下流域の人々が幕府に大和川の流れをかえる付け替えを訴え、1660年現地調査がなされた。幕府の役人であった河村瑞賢(1617~99)は大和川と淀川の水流が大阪の水運に不可欠であると判断し、付け替えはしないとの決定を下した。しかし彼の死後、幕府が付け替え推進に動き出す。幕府は付け替えによって農地を失い、洪水の危機に直面すると訴える反対派の訴えを押さえ込み、1703年に大和川の付け替えを決定する。当時幕府は財政難であり、新田開発の入札売却金と新田が新たな課税対象になることでの増収を見込んだ決定とも考えられている。これにより、後に一千町歩という大新田が開発されていくこととなる。

大和川附換摂河絵図(柏原市立歴史資料館蔵)

難波別院が開発

 大和川の付け替え工事は1703年に着工され、翌1704年には現在の堺市北側に沿って大阪湾に注ぐ流れとなった。

 一方、旧大和川から玉串川となり流れ込んでいた深野池、新開池は水量が激減し干上がり、新田開発が進められることとなった。新田開発は幕府が直接行うのではなく、開発人が幕府に計画を提出し、地代金を支払い、認可を受け開発する形をとった。そして旧深野池新田の開発に難波別院が名乗りを上げ、その権利を取得した。名乗りを上げた理由としては、祀堂銭(寺院の管理・修繕費として寄進される金銭)確保のためとも、教線を拡大する布教上の狙いがあったとも考えられている。

 こうして権利を得て開発を進めるも、開発権取得に多額の費用を費やしたうえ、土地の造成や橋、堤等々の整備に多額の経費を必要とした。それらは開発者の負担となり、さらに1708年には新田への検地が行われ、年貢の徴収が始まった。難波別院は新田の経営維持が困難となり、1721年に大坂久太郎町に店を構える平野屋又右衛門に売却した。

歴代上人の御書

 新田開発のため入植した門徒は、難波別院の直門徒として「河内二日講」を組織する。記録によると最初の講は1773年3月に開かれている。当時のご門主である乘如上人に御書(御消息)を願い出て、9月に新田開発当時のご門主であった真如上人の文章をもって御書が下付されている。その宛名に「難波未刹附河内国讃良郡深野中北同南新田、二日講中」とあり、ここに二日講という名が出てくる。この二日講という名の由来であるが、開発当時のご門主であった真如上人のご命日にあたる10月2日にちなんだものと考えられている。二日講は年2回、春と秋に行われ、講員は組に分かれ会場を持ち回りし、法要と御書が拝読されてきた。この江戸時代に授与された御書は現在でも大事に保管されている。また、1823年には達如上人より、1886年には厳如上人より御書を下付されている。

 現在も河内二日講は活動を続けており、年2回の御寄講の他、春秋の彼岸の頃には難波別院へ参拝し、別院職員と懇親を深めている。

(※2018年から御寄講と難波別院参拝は年1回となる)

河内二日講で保管されている御書

◎河内二日講 講員の声◎

 河内二日講では、毎年、難波別院の彼岸会法要に参拝し、そこで御寄講の打合せ等を行う場が持たれている。河内二日講が相続されてきたことについて講頭・宮崎佐利氏は、「先祖があっての私たちですし、そういうことを大切に講員らもお勤めしています。難波別院に参拝することも自然なことですし、先人からのご縁を大事にする場をこれからも受け継いでいきたいです」と語っている。