お彼岸ってなぁに?

~真宗門徒のお彼岸の迎え方~

(20149月号掲載)

【ピックアップ小特集】

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お彼岸ってなぁに?真宗門徒のお彼岸の迎え方(20149月号掲載)

 今月20日から26日は、秋彼岸。「暑さ寒さも彼岸まで」と、日本人の季節感にまでなっているお彼岸。全国各地では、秋分の日を中心とした7日間、寺院などで読経、法話を行う「彼岸会」が勤められ、墓地ではいっせいに仏花で彩られるなど、彼岸は古くから親しまれてきた。

 そこで今月号では、お彼岸の由来を紹介しつつ、真宗門徒にとってお彼岸をどのようにお迎えすべきか特集してみた。

諸仏の声を聞き念仏申す身に~浄土の世界に生まれたいと願う仏事~

 春秋の年に二度にわたる彼岸会は、一般的にお墓参りやお寺参りなど、亡き人を偲ぶ仏教行事として宗派を問わず全国各地で勤められている。

 この彼岸というのは、文字通り「彼(か)の岸」という意味で、阿弥陀如来の浄土の世界をあらわしている。つまり、私たちの生きている煩悩にまみれた迷いの苦悩の世界、いわゆる現実の娑婆世界を「此岸(しがん)」というのに対して、さとりの世界(涅槃の世界)を彼岸というのである。その此岸を生きる私たちが、亡き人をご縁にして、仏さまの教えに出遇い、浄土、つまり彼岸の世界に生まれたいと願う仏事が彼岸会である。

 この彼岸会という仏教行事は、どのような理由で始まったかは定かではない。また、インドや中国から由来するものではなく、日本独自の仏教行事であると言われている。

 彼岸という言葉は、梵語のパーラミター(波羅蜜多)の意訳で「到彼岸」とも訳される。これは、さとりの境地である彼岸に到ること、またその境地をいうのである。

 では、なぜこの彼岸会が春分、秋分の日を挟んで一週間の期間に勤められるのか。それは、私たち真宗門徒にとって大切な経典の一つの『仏説観無量寿経』による「日想観」といわれるものである。これは、釈尊が13からなる「浄土の観法(浄土を正しく観ずる法)」を説き示した中の一つで、陽がのぼり、そして西方に沈む光景を心の中で観じよと教えたものである。

 この日想観を解釈して、中国の善導大師は『観経四帖疏』の中で「冬と夏との両時を取らず、唯春秋の二際を取る。その日正しく東より出て、直ちに西に没す。弥陀仏の国は、日没の処に当りて、真西に十方の諸仏の国を超えた処にある」と述べられている。つまり、1年のうちで太陽が真東からのぼり、真西にしずむ日、それが最も「日想観」にふさわしい日であるとされたことに由来するのである。

「当極楽土 東門中心」の額が掲げられている四天王寺西門

 日本では、大阪の四天王寺に古くからお彼岸の中日に夕日を拝む西門信仰がある。中日になると沈む夕日をちょうど真西にのぞむので、これが日想観と考え合わされて、四天王寺の西門が、西方極楽浄土を願う人たちの信仰の中心地になったのである。現在も、四天王寺西大門前の鳥居には、「当極楽土 東門中心」の額が掲げられている。

 また、中日をはさんでの一週間を彼岸としているのは諸説あり、『仏説阿弥陀経』による説や、中道の精神が大切にされたことから暑くも寒くもない時期が仏道修行に適しているからという説などがある。

阿弥陀の本願に目覚め聞法精進

 また、私たちが彼岸を求め歩もうとする求道の姿を善導大師は、「二河白道の譬え(二河譬)」として説いている。この譬えは、ある旅人が西岸(彼岸)をめざそうとすると、水と火の二つの大河(貪欲と瞋憎=怒り、腹立ち、嫉み、妬む心の煩悩)が行く手をさえぎり、その中間に東岸(此岸)から西岸に到る狭い白道がある。後ろを振り向くと、たくさんの群賊悪獣(東岸に呼び返す者の譬え)が襲ってくる。引き返すことも、立ち止まることも、前に進むこともできず自分の力でわたれそうもない。しかし、東岸からの「行け」という釈尊の励まし勧める声と、西岸からの「来たれ」と呼ぶ阿弥陀如来の声を聞き、その二尊の声を信順して、旅人は一心に一筋の白道を旅するという譬えである。煩悩の身を抱え生きる私たちであるが、阿弥陀の本願に目覚め、日々の生活の中で聞法精進し彼岸を願い求めて歩みたいものである。

 いずれにしても、彼岸は、阿弥陀如来の浄土のことであり、私たちの先祖はその浄土で諸仏となって、私たちに真実に目覚めてほしい、生きる喜びを見いだしてほしいと、願いをかけておられるのである。また、浄土は、いのちの道理の世界であり、無量のいのちがそこで出遇い、その出遇いを喜んでおられる世界と教えられる。すなわち、私たちにとって先祖とは、「○○家の先祖」にとどまらず、今この私にまでなっている無量無数のいのちをいうのである。つまり、今の私がここにいるということは両親を縁としているが、その背景にある無量のいのちの礎があることは言うまでもない。

 私たちが諸仏になられた先祖の願いを聞き、彼岸を求め、念仏申す身とさせていただく機縁とすることが、真宗門徒の彼岸の大切な意義である。